伝記
コーマック・マッカーシーは、1933年7月20日にアメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンスで生まれ、2023年6月13日に没した小説家である。本名はチャールズ・ジョセフ・マッカーシー・ジュニアで、六人きょうだいの一人だった。家はアイルランド系のカトリックで、1937年に一家はテネシー州ノックスビルへ移った。父はテネシー川流域開発公社に勤める弁護士で、本人は後年、周囲の人々が一部屋か二部屋の掘っ立て小屋に暮らす中で、自分たちは裕福とみなされていたと語っている。
1951年にテネシー大学に入ったが、1953年に退学して空軍に入隊し、4年間従軍した。アラスカに駐留していた間に、はじめて本を貪るように読んだという。1957年に大学へ戻って英語を専攻し、学生文芸誌に短編を二つ発表して、1959年と1960年にインガラム・メリル賞を受けた。1959年に再び大学をやめてシカゴへ向かっている。作家として活動するにあたり、名をチャールズからコーマックに改めた。腹話術師の人形チャーリー・マッカーシーとの混同を避けるためとされ、アイルランドの首長の名にちなむともいわれる。1961年に同じ学生だったリー・ホレマンと結婚し、ノックスビル郊外の山麓にある暖房も水道もない小屋で暮らして、1962年に息子が生まれた。
のちにスペインのイビサ島に住み、その後はエルパソに移って20年近くを過ごした。定職には就かず、丸木小屋や牛小屋のような住まいで貧しく暮らしながら、文学賞の賞金や財団の資金でヨーロッパやメキシコを旅し、小説のための取材を重ねた。1965年に処女作『果樹園の守り手』を出し、続く第二作『アウター・ダーク』(1968年)は南ヨーロッパで書かれた。『サトゥリー』(1979年)など初期の作品は評価されたものの、売れなかった。マッカーサー・フェローシップによって米国南西部へ移り、そこで取材して書いた『ブラッド・メリディアン』(1985年)は、当初は評価も売れ行きも冷ややかだったが、のちに代表作とみなされ、「偉大なアメリカ小説」とまで呼ぶ人もいる。19世紀の西部開拓時代の残酷な暴力を描いた作品である。
初めて広く成功したのは、還暦を前にした1992年の『すべての美しい馬』で、全米図書賞と全米批評家協会賞を受けた。『越境』(1994年)、『平原の町』(1998年)と合わせて国境三部作と呼ばれる。2005年の『血と暴力の国』は2007年にコーエン兄弟の監督で映画化され、日本では『ノーカントリー』の題で知られる。この映画はアカデミー賞のうち作品賞を含む四部門を受けた。2006年の『ザ・ロード』は2007年にピューリッツァー賞とジェームズ・テイト・ブラック記念賞を受けた。『すべての美しい馬』『ザ・ロード』『チャイルド・オブ・ゴッド』も映画になっている。文体は、台詞に引用符を使わず、描写や出来事を息の詰まるような長い文に詰め込む点に特徴がある。
2000年頃からは、複雑適応系の研究で知られるサンタフェ研究所にシニア・フェローとして席を置き、研究者の論文の編集を手伝った。2017年にはエッセー「ケクレ問題」を発表し、無意識と言語の起源を論じている。2012年にアメリカ哲学協会の会員に選ばれた。最後の長編二作は2022年に相次いで刊行された。インタビューを嫌うことで有名だったが、2007年にはオプラ・ウィンフリーの番組に出演し、自分のしていることが好きだから続けているだけだと語った。2023年6月13日、老衰のためニューメキシコ州サンタフェの自宅で亡くなった。
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