伝記
マザー・テレサは、1910年8月26日に当時のコソボ州ユスキュプ(現在の北マケドニアのスコピエ)で生まれ、1997年9月5日に亡くなったカトリックの修道女である。本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュで、修道会「神の愛の宣教者会」を創立し、のちにコルカタの聖テレサとして聖人に列せられた。「マザー」は指導的な修道女への敬称で、「テレサ」は敬愛したリジューのテレーズにちなむ修道名である。
母ドラナはアルバニア人、父ニコはルーマニア人と同系のアルーマニア人であった。父は地元の名士で、手広く事業を営み、アルバニア独立運動にも関わったが、1919年に45歳で急死した。政敵による毒殺説もある。3人きょうだいの末っ子で、姉や兄からは「花のつぼみ」を意味する「ゴンジャ」と呼ばれた。一家は裕福で信仰心が篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。12歳のころには、将来インドで修道女として働きたいと望んでいたといわれる。
18歳で故郷を離れ、アイルランドのロレト修道女会に入った。ダブリンで基礎教育を受けたのち、修練女として1931年にインドのダージリンに赴き、初誓願でテレサの名を選んだ。1937年に終生誓願を立てた。カルカッタの聖マリア学院では地理と歴史を教え、授業は生徒に人気があり、1944年には校長に任命された。しかし1946年9月、年に一度の黙想のためダージリンへ向かう汽車の中で「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたと、自ら語っている。教会の上層部は慎重に評価を進めて、すぐには認可を与えなかったが、1948年に教皇ピウス12世から修道院の外で暮らす特別許可が得られた。サリーを身にまとってスラム街に入り、学校へ行けない子どもたちを集めて街頭で教えはじめると、教え子たちがボランティアとして集まり、寄付も寄せられた。
「神の愛の宣教者会」は1950年10月7日に認可され、1965年には教皇庁立の修道会となった。ヒンドゥー教の廃寺院を譲り受けて、「死を待つ人々の家」というホスピスを開き、児童養護施設なども設けた。当初はキリスト教への改宗を迫るのではないかと疑われたが、ケアする相手の宗教を尊重し、ヒンドゥー教徒にはガンジス川の水を、イスラム教徒にはクルアーンの朗読を捧げたという。1969年にはマルコム・マッグリッジのBBCのドキュメンタリーにより、世界に知られるようになった。1971年に教皇パウロ6世の平和賞の最初の受章者に選ばれ、1979年にはノーベル平和賞を受けた。授賞式には白い木綿のサリーと革のサンダルで臨み、晩餐会は不要として費用を貧しい人々に回すよう求め、賞金19万2,000ドルもカルカッタの貧しい人々のために使われた。1982年には、戦火のベイルートで動けなくなった病院の患者たちの救出にも関わった。
晩年は健康を損ね、1983年にローマで心臓発作に見舞われ、1989年にはペースメーカーをつけた。1997年3月に総長職を辞し、9月5日にカルカッタのマザー・ハウスで87歳で亡くなった。このときの会員は4,000人で、123か国の610か所でホスピスやハンセン病者の施設、学校などを運営していた。葬儀はインド政府による国家葬として行われ、死後すみやかに列福の調査が始まり、2003年10月19日にヨハネ・パウロ2世が列福し、2016年9月4日にフランシスコが列聖した。生前の活動には批判もあったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ピラール・ミロー (1997年没)
- Owen Barfield (1997年没)
- トニー・ウィリアムス (1997年没)
- エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ (1997年没)
- ジョン・ハーワード・ヨーダー (1997年没)
同じ地域に関係する人物
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- アシマ・チャタジー (2006年没)
- ウタパル・ダット (1993年没)
- ウダイ・シャンカール (1977年没)
- ウッタム・クマル (1980年没)