伝記
モブツ・セセ・セコ・クク・ンベンドゥ・ワ・ザ・バンガは、1930年10月14日にベルギー領コンゴのリサラで、カトリックの貧しい家庭に生まれた。生まれたときの名はジョゼフ=デジレ・モブツである。父は料理人として働いたとされ、母は掃除婦だったとされる。ベルギー人判事の妻に気に入られてフランス語の読み書きを教わり、宣教師の経営する寄宿学校では運動も勉強もよくできたが、悪ふざけでも知られていた。落ち着きがなく放浪癖があったため、1949年に退学となり、7年間軍隊に入れられた。
軍を出てからは首都で会計兼タイピストの主任や公安軍機関紙の編集者となり、1956年にはリベラルな日刊紙に採用されて、そこでパトリス・ルムンバと知り合った。1958年にルムンバの創設したコンゴ国民運動に加わり、ブリュッセルでの独立交渉にも参加した。1960年6月にベルギーからコンゴが独立すると大臣補佐に指名され、ルムンバの抜擢で軍の参謀総長となった。同年9月のクーデターで実権を握り、のちにジョセフ・カサブブ大統領と手を結んでルムンバ首相を逮捕したことで、アメリカとの関係が深まった。ルムンバは敵のチョンベに引き渡され、1961年1月17日に処刑された。モブツは1961年に政権を文民に移したが、1965年11月24日に再度クーデターを実行して大統領に就任した。憲法を無効にし、野党を非合法化して、革命人民運動による一党独裁を確立した。反対派は弾圧され、亡命中だったモイーズ・チョンベは1967年に欠席裁判で死刑を宣告された。乗っていた飛行機がハイジャックされてアルジェリアで軟禁され、1969年に死去したが、自然死とも暗殺とも言われる。
1971年に国名をコンゴからザイールに、首都の呼び名をレオポルドヴィルからキンシャサに改め、1972年には自らの名もモブツ・セセ・セコと改めた。民族主義的なザイール化政策の一環で、西洋風のスーツとネクタイを禁じ、人民服に似た襟の服装を国民に強いた。1972年には台湾と断交して中華人民共和国を訪れ、毛沢東に接近し、軍事顧問団や戦車などの援助を受けた。外交では冷戦を利用し、親米反共の立場から西側の援助を集めて、サハラ以南のアフリカではアメリカから最も多くの援助を受けた。不正に蓄えた財産は総額およそ50億ドルといわれ、各国に別荘や古城を持ち、北部のバドリテにも自家用飛行場つきの巨大な宮殿を築いた。「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれ、世銀などの資金は貧しい人々の助けにならず、対外債務を増やしたとされる。
1990年に経済の悪化と騒乱で野党との協調を強いられた。1996年8月に前立腺癌でスイスの病院に入院するころから情勢は一変し、東部のツチ系住民の蜂起に乗じて、ローラン・カビラが反政府勢力を結集して進撃を始めた。モブツは1997年5月まで帰国せず、5月16日にキンシャサへ戻ってすぐ北部の宮殿に逃れ、17日に反乱軍が首都に入った。18日にモロッコのラバトへ出国し、9月7日に亡命先で死去した。その思想はモブツ主義と呼ばれ、息子ンザンガが結成した政党は、今日のコンゴでも一定の支持を集めている。
同じ年に亡くなった人物
- トム・パーカー (マネージャー) (1997年没)
- アルフレッド・ハーシー (1997年没)
- ハイム・ヘルツォーグ (1997年没)
- アンドルー・クナーナン (1997年没)
- ジョルジョ・ストレーレル (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- マーティ・ボウアビッド (1996年没)
- ムハンマド・ウフキル (1972年没)
- アッザッディーン・ララーキー (2010年没)
- モハメド・チョークリ (2003年没)
- ファーティマ・メルニーシー (2015年没)