伝記
黒澤明は、1910年3月23日に東京府荏原郡の大井町で、荏原中学校に勤めていた父勇と母シマの4男4女の末っ子として生まれた日本の映画監督・脚本家・プロデューサーである。父は秋田県出身の士族の家の人で、日本体育会の要職にあり、厳格だったが当時は好ましくないとされた映画に理解があり、進んで家族を連れて見に出かけた。少年の黒澤は連続活劇やウィリアム・S・ハート主演の西部劇をよく観たという。幼いころは泣き虫のいじめられっ子だったが、小学校の担任の立川精治が個性的な絵を褒めたことで絵が好きになり、勉強にもついていけるようになって級長にもなった。
4つ上の兄丙午は、気性が激しく厭世的で、関東大震災の際には弟を壊滅した街へ連れて行き、無数の死骸を見せて恐ろしさを克服することを教えた。この兄は黒澤にとって反面教師的な存在となり、のちの強い人生肯定を特徴とする作風に影響を与えたとされる。京華中学校時代は勉学そっちのけでロシア文学や日本文学に熱中し、作文の才能を示した。神楽坂の洋画専門館に通い、アベル・ガンス監督の『鉄路の白薔薇』が映画監督を志す大きなきっかけになったという。中学在学中に画家を志し、1928年には油絵『静物』が二科展に入選した。その後はプロレタリア美術運動に加わったが、政治的主張を絵にすることに疑問を感じて熱意を失い、一時は非合法活動にも関わったのち、1932年春までに身を引いた。1933年7月には兄の丙午が自殺し、その4か月後に長兄も病死して、黒澤が跡取りとなった。
1936年、新聞記事で見たP.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)の助監督募集に応募した。小論文で「根本的欠陥は矯正しようがない」と答えて試験を通り、学歴は旧制中学だけだったが、山本嘉次郎の推薦により例外として合格した。山本組で脚本から編集、会計まで学び、山本を「最良の師」と仰いだ。谷口千吉や本多猪四郎とも助監督仲間だった。山本の『馬』(1941年)ではB班監督と編集を務め、主演の高峰秀子との恋が新聞沙汰となったが、実らなかった。「監督になるにはシナリオを書け」という山本の助言で脚本を書き、『達磨寺のドイツ人』(1941年)で才能を認められ、1942年には『静かなり』が情報局賞を受けた。
監督としての処女作に企画した作品は、戦時中のフィルム配給制限や検閲で次々と実現しなかった。1942年9月、富田常雄の小説『姿三四郎』の広告を見て映画化を思い立ち、発売されるとすぐに買って読み、映画化権を獲得させた。こうして1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。続く『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目され、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受けて日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。『生きる』『七人の侍』『用心棒』などが高く評価され、俳優の三船敏郎とは30本の監督作品のうち16本でコンビを組んだ。1960年代後半にハリウッドへ進出して失敗したのち、海外資本で『デルス・ウザーラ』『影武者』『乱』『夢』を制作した。1985年に映画人初の文化勲章を受け、1990年にアカデミー名誉賞を受賞した。1998年9月6日に没し、位階は従三位で、映画監督として初の国民栄誉賞が贈られた。
同じ年に亡くなった人物
- マブーブル・ハック (1998年没)
- アラン・シェパード (1998年没)
- クラウディア・テストニ (1998年没)
- カール・シュミッド (1998年没)
- ウラジミール・プレローグ (1998年没)