伝記
バリー・モリス・ゴールドウォーターは、1909年1月2日、アリゾナ準州のフェニックスで、バロン・ゴールドウォーターとハッティ・ジョセフィン・ウィリアムズの夫妻の子として生まれた。祖父は1821年にポーランドのコニンで生まれたユダヤ人で、1848年の革命でロンドンに移り、ゴールドワッサーからゴールドウォーターに改名して、のちにアメリカへ渡った。父はデパートを経営し、もとはユダヤ教徒だったが、ロジャー・ウィリアムズを出した一族の出身であるハッティとの結婚を機に、監督派(米国聖公会)に改宗した。家業のデパートで一家は裕福であり、ゴールドウォーターはアリゾナ大学に入学したが、1930年に父バロンが死去したため大学を中退し、家業を継いだ。アリゾナ州は民主党の地盤が強く、彼は民主党の改革派として政治活動を始めたが、のちに共和党へ移り、ニューディール政策に反対した。1934年にマーガレット「ペギー」・ジョンソンと結婚し、4人の子をもうけた。
第二次世界大戦が始まると陸軍航空軍の予備役士官として任官し、世界中の戦場に物資を運ぶ新設部隊のパイロットになった。軍歴の大半を本国とインドの間の飛行に費やし、国民党軍への補給のためヒマラヤ上空も飛んだ。戦後も軍にとどまって空軍士官学校の創設に力を尽くし、同校のビジターセンターには彼の名がつけられた。最終的に少将で退役し、退役までに165種類の航空機を操縦したという。
1952年、上院議員選挙に出馬し、当時の民主党上院院内総務アーネスト・マクファーランドを破って当選、のち再選された。共和党内では急進派とみられ、アイゼンハワー政権の政策の一部が、民主党と似たニューディール路線を踏襲しているとして批判した。ジョセフ・マッカーシーと親しい議員の一人で、マッカーシーの譴責決議案に反対している。ジョン・F・ケネディも同じく反対した親しい友人だった。一方、そのあとを継いだジョンソン大統領とは犬猿の仲で、主要な政敵とされた。
1964年、ネルソン・ロックフェラーとの熾烈な指名争いを勝ち抜き、共和党の大統領候補に指名された。彼は、主流派や穏健派が共和党独自の色を打ち出していないと批判し、小さな政府、市場への介入の限定、強硬な反共路線などを直截な言葉で訴えた。こうした姿勢から、現代アメリカの保守主義運動の先導者とされることが多い。他方で、共和党員の大半が賛成した公民権法に反対したため、人種差別主義者というイメージが生まれた。ヴェトナムでの核兵器使用もありうるとの発言は、当選すれば核戦争になるという相手方の攻撃に使われた。選挙はジョンソン486、ゴールドウォーター52という歴史的な大敗に終わったが、深南部の5州とアリゾナで勝ち、南部における共和党の将来の可能性を示した。その流れは、のちにロナルド・レーガンに引き継がれた。
レーガン政権下で宗教右派が台頭すると、同性愛への反対や中絶反対といった主張に強く反発した。上院では情報委員長(1981年から1985年)、軍事委員長(1985年から1987年)を務め、1986年に大統領自由勲章を授けられて、1987年に引退した。1990年代には共和党の中で異質な意見を持つ人物として注目され、軍隊内の同性愛をめぐる「ドント・アスク、ドント・テル」法の制定時にも、兵士が同性愛者でも構わないという姿勢を示した。1996年に重い脳卒中を患って表舞台から姿を消し、家族はアルツハイマー病の初期にあったと公表した。1998年5月29日、アリゾナ州パラダイス・ヴァレーの自宅で、脳卒中の合併症により89歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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- Elio Morille (1998年没)
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- テオドール・オーベルレンダー (1998年没)
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