伝記
福井謙一は、1918年(大正7年)10月4日に生まれ、1998年(平成10年)1月9日に没した日本の化学者である。工学博士で、アジア人として初めてノーベル化学賞を受けた。工場経営と外国貿易を営む父亮吉の長男として、奈良県生駒郡平城村押熊(現在の奈良市押熊町)に生まれたとされるが、大和郡山市の出生とする説もある。育ったのは大阪府西成郡玉出町(現在の大阪市西成区岸里)で、少年時代はファーブルの昆虫記を愛読した。1930年に玉出第二尋常小学校、1935年に旧制今宮中学校、1938年に旧制大阪高等学校の高等科理科乙類を卒業した。
数学が好きだったが、父の叔父で京都大学教授の喜多源逸から「数学が好きなら化学をやれ」と言われたことに触発され、京都帝国大学の工学部工業化学科に進んだ。理学部の物理学科の講義にも潜り込んで量子力学を身につけ、のちにフロンティア軌道理論を完成させることになる。1941年3月に卒業して同大学院に入り、同時に短期将校として、府中の陸軍燃料廠に入所した。1943年8月には京都帝国大学の燃料化学科講師となった。24歳の講師でありながら、国から陸軍技術大尉にも任命されていたため、「別格官幣大社」と呼ばれたという。戦時下でも東京と京都の間を往復するなど自由な生活が許され、アルコール蒸気の満ちる陸軍燃料研究所の実験室で実験を重ねたため、酒にめっぽう強くなったと伝わる。
1945年9月に助教授となり、1948年6月、化学工業装置の温度分布に関する理論的研究により京都大学の工学博士となった。1951年4月に同学部の高温化学講座の教授に就き、1965年には高圧化学講座の教授となった。1960年代初めには、まだ黎明期だった核磁気共鳴分光法を研究に取り入れていた。1952年にフロンティア軌道理論を発表した。分子の反応性が、フロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相に支配されていることを初めて明らかにしたもので、世界の化学界に衝撃を与えた。1962年に日本学士院賞を受け、1971年4月から1973年3月まで京都大学工学部長を務めた。
1981年、「化学反応過程の理論的研究」によってノーベル化学賞を受賞した。同年には文化功労者となり、文化勲章も受けている。馬場錬成は、この受賞にイリヤ・プリゴジンの推薦が影響したとしている。1982年4月に京都大学を退官して名誉教授となり、同年6月に京都工芸繊維大学の学長に就いて、1988年5月まで務めた。その後は基礎化学研究所の所長となり、1990年に学術審議会会長、1995年に日本学術振興会会長を務めた。1988年に勲一等旭日大綬章、1989年にロンドン王立協会外国人会員となっている。
人柄をめぐる逸話も多い。枕元には常にメモ帳と鉛筆を置いて寝て、早朝の散歩にも手帳を持ち歩いた。不要な印刷物も、裏が白ければ大きさをそろえてメモ用紙に再利用したが、これは紙が貴重だった戦前からの習慣だったという。毎朝の散歩を欠かさず、北白川疏水から赤山禅院へ至る道を好んで歩いた。長嶋茂雄のファンでもあった。基礎学問の重視と独創的な研究の必要性、科学と人間の平和的な共存を訴え、1998年1月に満79歳で亡くなった。吉野彰や北川進は、その孫弟子にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- Vico Torriani (1998年没)
- Ferenc Deak (1998年没)
- ブリュノ・ロジック (1998年没)
- コルネリア・ボウマン (1998年没)
- エヴァ・バルトーク (1998年没)