HISTORICAL PERSON · 1998年没

エルンスト・ユンガー

ドイツの軍人、思想家、小説家。第一次、第二次世界大戦に従軍し、戦闘体験記や日記、戦争を主題とする随筆や論考を残した。

生涯
1998年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / リートリンゲン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハイデルベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

エルンスト・ユンガーは、1895年3月29日にドイツのハイデルベルクで生まれ、ハノーファーで少年時代を過ごした軍人、思想家、小説家である。父は化学者で薬剤師、弟には、のち詩人、エッセイストとなるフリードリヒ・ゲオルクがいる。学業に飽き足らずギムナジウムを何校も転校し、冒険に憧れてワンダーフォーゲルに参加して各地を旅した。アフリカの赤道地帯をめざして家出し、北アフリカのフランス外人部隊に入ったが、事態を知った父に連れ戻された。

第一次世界大戦が始まると、ギムナジウムを卒業して大学入学の手続きを済ませたうえで、ハノーファーの歩兵連隊に志願兵として入った。士官候補生の訓練を受けて歩兵少尉に任官し、西部戦線の最前線に立ち続けて、ソンムやヴェルダンの戦い、1918年のルーデンドルフ大攻勢など主要な戦いのすべてに加わった。浸透戦術をとる特別編成の突撃隊の隊長として14度負傷し、うち8度は重傷だった。一級鉄十字章などを受け、1918年にはプロイセンの最高の軍事功労勲章プール・ル・メリットの最年少受章者となった。この体験は1920年刊行の『鋼鉄の嵐の中で』や『火と血』、『内的体験としての戦闘』に書かれ、戦争の凄惨さを戦争賛美に結びつけるところに特徴があり、「英雄的リアリズム」と呼ばれる。

ヴァイマール共和国時代には兵力10万人に制限された国軍に残り、カップ一揆の鎮圧に出動し、新しい歩兵操典の作成にも加わった。しかし国軍の旧態依然とした性格に嫌気がさし、1923年に退官した。ミュンヘン大学で生物学者で哲学者のハンス・ドリーシュに師事して動物学と哲学を学び、ナポリの動物研究所の研究員となった。昆虫の採集と研究は、生涯の趣味、仕事となった。1925年にウィーンで出会ったグレータ・フォン・ヤインゼンと結婚して二人の子を得た。1926年からは文筆に専念し、鉄兜団に近づき、民族革命派の雑誌に多くの論考を載せて、若い世代の保守革命の思想的指導者とされた。1932年の『労働者』は、第一次世界大戦を総動員の戦いとしてとらえ、マルティン・ハイデッガーに決定的な影響を与えたという。読者にナチスの幹部も多かったが、ナチ党の出馬の願いや文化アカデミーへの参加は頑なに拒み、『大理石の断崖の上で』が示すとおり、あくまで非ナチに徹した。

1933年にベルリンを去ってキルヒホルストに住み、ゲシュタポの家宅捜索を受けた。ヒムラーは逮捕しようとしたが、ヒトラーが制止したという。1938年以降は執筆を禁じられた。第二次世界大戦には予備大尉として召集され、1940年の西方戦役に参加し、1941年からはパリのドイツ軍司令部で私信検閲に就いてフランスの知識人と交流し、パリは「第二の故郷」となった。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に関係があったとされ、軍法会議の後、執行猶予大隊に配属された。同年11月29日には息子のエルンストがイタリア戦線で戦死している。戦時の日記は『射光』の題でまとめられた。最初の妻グレタは1960年に亡くなり、1962年にリゼロッテ・ローアーと再婚した。

幻覚剤を試し、LSDを発明した化学者アルベルト・ホフマンとも親しく交わった。1995年の100歳の誕生日にはヘルムート・コールやフランソワ・ミッテランら多くの人が集った。死の前年に福音派からカトリックへ改宗し、1998年2月17日、リートリンゲンで102歳の生涯を終えた。

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