HISTORICAL PERSON · 1999年没

アミントレ・ファンファーニ

イタリアの政治家・経済学者。キリスト教民主党の結党に参加し、首相を6度務め、外相や上院議長も歴任した。

生涯
1999年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ピエーヴェ・サント・ステーファノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

アミントレ・ファンファーニは1908年2月6日、イタリア中部トスカーナ地方アレッツォ県のピエーヴェ・サント・ステーファノに生まれた。父ジュゼッペは大工の子から学んで法学を修め、弁護士・公証人になった人物で、母アンニータは主婦であった。9人きょうだいの長男として、信仰の篤いカトリックの家庭に育った。名は、社会主義の賛歌「労働者の賛歌」を作曲したアミントレ・ガッリにちなむ。12歳の1920年にカトリック・アクションに加わり、のちに地方の指導者となった。ミラノのカトリック大学を1930年に卒業し、のちにここやローマ大学で教えた。経済史と経済学史の研究者で、宗教と資本主義の関係を論じた著作を残している。

ムッソリーニ政権下では国家ファシスト党に入り、階級間の協調をうたう協同組合国家の考えを擁護する記事を書いた。1938年には反ユダヤ主義的な「人種に関する宣言」に署名した330人の一人にもなり、ミラノのファシスト神秘学校の教授も務めた。1939年4月22日にビアンカローザ・プロヴァソーリと結婚し、2男5女をもうけた。ミラノで知り合ったジュゼッペ・ドセッティ、ジョルジョ・ラ・ピーラとともに、修道院の独房で禁欲的に暮らす「小さな教授たち」と呼ばれる集団を作った。1943年9月にイタリアが連合軍に降伏すると集団は解散し、ファンファーニは兵役を避けてスイスへ逃れ、イタリア人避難民のための大学講座を開いた。

戦時中の1942年、旧イタリア人民党のアルチーデ・デ・ガスペリらとともに、戦後に大勢力となるキリスト教民主党の結成に加わった。1946年6月に発足した憲法制定議会の議員に選ばれ、翌年5月、第4次デ・ガスペリ内閣に労働・社会保障相として初めて入閣した。1954年1月19日に初めて首相に就いたが、信任決議案が下院で否決されて辞め、23日間という在任期間はイタリア共和国史上最短である。同年6月にはデ・ガスペリの後任として党首となり、1959年3月まで務めた。1958年の総選挙後に再び首相になり、民主社会党との連立で両院の信任を得た。しかし権力の集中を狙ったことに党内の保守派が反発して造反し、翌年1月に辞任した。1960年7月から1962年2月までの第3次内閣は党の単独政権で、社会党の棄権で成立した中道左派への試みであった。第4次内閣は1962年から1963年まで続き、統一中学校の導入や電力国有化を含む改革の地ならしを進めた。

のちに内相や外相、国連総会議長なども歴任し、欧州統合を支持する声の大きな一人でもあった。1968年から1987年にかけて元老院議長を3期務め、1972年には終身上院議員に任じられた。1978年にレオーネ大統領が辞任すると、ペルティーニが選ばれるまで大統領の職務を暫定的に代行した。政治的な才能から「純血種の馬」と呼ばれる一方、小柄なため「ポニー」と揶揄もされた。1980年代にもスパドリーニ政権(1982年)と第2次クラクシ政権(1987年)の総辞職を受けて、つなぎ役として首相に就いたが、汚職摘発を契機とする党の衰えを止められず、1994年1月の党の解党を見届けた。1999年11月20日、ローマの病院で91歳で死去し、国葬が営まれた。冷戦下のイタリアへの貢献は大きいとする評価がある一方、ライバルのジュリオ・アンドレオッティと同様に長く権力の座にとどまり、マフィアなどの犯罪組織との癒着がたびたび噂されたため、評価は大きく分かれる。

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