伝記
ジョン・チャールズ・ハーサニは、1920年5月29日にハンガリーのブダペストで生まれ、2000年8月9日にアメリカ合衆国のバークレーで没したゲーム理論の学者である。ハンガリー名はハルシャーニ・ヤーノシュ・カーロイという。1994年に、ジョン・ナッシュ、ラインハルト・ゼルテンとともに、非協力ゲーム理論における功績でノーベル経済学賞を受けた。
薬局を営む父チャールズと母アリシアの子としてブダペストで生まれた。両親は、彼が生まれる1年前にユダヤ教からカトリックに改宗していたという。ブダペストのルーテル教会系のギムナジウムに通い、数学と物理の問題を解く雑誌の優れた解答者となり、中等学生の数学競技会ではいちばんの賞も得た。数学と哲学を学びたかったが、父の意向により、1939年にフランスのリヨン大学で化学工学を学び始めた。しかし第二次世界大戦が始まったためハンガリーへ帰国し、ブダペスト大学(現在のエトヴェシュ・ロラーンド大学)で薬理学を学んで、1944年に卒業した。薬学の学生だったことで、ユダヤ系の人間には強制労働を意味する徴兵を免れていた。
しかし1944年に、政権が替わって徴兵の猶予が取り消され、東部戦線の強制労働部隊に入れられた。7か月の労働ののち、ドイツ当局がその部隊をオーストリアの収容所へ送ろうとしたとき、彼は逃げ出し、戦争が終わるまでブダペストのイエズス会の修道院に身を寄せた。戦後はブダペスト大学の大学院に戻り、1947年に哲学の博士号を、副専攻の社会学でも学位を得て、社会学研究所の助教授となった。敬虔なカトリック教徒として神学も学び、のちにカトリックを離れて、生涯無神論者になったとされる。大学で後に妻となるアン・クローバーと出会った。しかし反マルクス主義の意見を公言したため大学を去らねばならず、1950年に薬局が共産党政権に没収されることが明らかになると、アンや両親とともにオーストリアへ不法に国境を越え、オーストラリアへ向かった。
1950年12月30日にシドニーに到着し、翌1951年1月2日にアンと結婚した。ハンガリーの学位は認められなかったため、昼は工場で働き、夜にシドニー大学で経済学を学んで、1953年に修士号を得た。学ぶ間に経済学の専門誌に論文を出し、その成果で1954年にクイーンズランド大学の講師となった。1956年にロックフェラー財団の奨学金を得てスタンフォード大学へ行き、ケネス・アローの指導で、ゲーム理論に関する論文を書き、1959年に経済学の博士号を取った。ビザの期限が切れたため1958年にオーストラリアに戻り、キャンベラのオーストラリア国立大学で教えたが、ゲーム理論への関心の薄さに不満を抱き、アローらの助けでアメリカへ移った。1961年から1963年までデトロイトのウェイン州立大学の教授を務め、1964年から1990年までカリフォルニア大学バークレー校の教授を務めた。
ベイジアンゲームと呼ばれる不完備情報ゲームの革新的な分析手法を開発したことで知られ、道徳哲学や政治哲学でも、ゲーム理論と経済学の推論を用いた重要な貢献をしている。1997年には中国人民大学から名誉博士号を贈られた。晩年はアルツハイマー病を患っていたが、死因は心臓発作だった。
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