伝記
ロレッタ・ヤングは、1913年1月6日にアメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティで生まれ、2000年8月12日にロサンゼルスで亡くなった女優である。本名はグレッチェン・ヤング。ルクセンブルクの血筋を引き、両親は彼女が2歳のころに別れた。3歳のときに母と姉妹とともにハリウッドへ移り住んだ。
両親の離婚後、一家はロサンゼルスで下宿屋を開いて暮らした。家計を助けるために、姉のポリー・アンやサリー・ブレーンとともに子役として映画に出演するようになり、そのなかでも注目されたのがロレッタだった。3歳で出演した『プリムローズ・リング』(1917年)で共演した大スターのメイ・マレーは、幼いグレッチェンを気に入って養女にしたいと望んだ。母は断ったが、少女は2年間、このスターのもとで暮らすことを許されたという。子役のころには、ロン・チェイニーやルドルフ・ヴァレンチノの映画にも端役で出た。マーヴィン・ルロイ監督に声をかけられて、1928年に本格的に映画デビューした。
1930年、17歳のときに26歳の俳優グラント・ウィザースと駆け落ちしたが、翌年に関係を解消した。1930年代には、フランク・キャプラ監督の『プラチナ・ブロンド』(1931年)でジーン・ハーロウと競い合う役を演じ、ウィリアム・ウェルマン監督の作品にも出た。1934年にはクラーク・ゲーブルと『野性の叫び』で共演したことがきっかけで関係を持ち、妊娠した。当時ゲーブルには妻がおり、カトリックの信者として育てられたヤングは中絶を拒んだという。世間には隠し通したまま、1935年に極秘で娘ジュディを産んだ。世間には養女をとったと伝えていたが、晩年に書かれた自伝で、ゲーブルとの間の子であることを告白している。1940年にはプロデューサーのトム・ルイスと結婚したが、これも後に離婚した。フォックス社と契約していた1930年代には、『十字軍』『ラモナ』『スエズ』などの大作に出演した。ロナルド・コールマン、ケーリー・グラント、タイロン・パワー、ヘンリー・フォンダ、ゲーリー・クーパーなど、数々の名優を相手役にした。
1947年の『ミネソタの娘』でアカデミー主演女優賞を受賞した。それまで賞とは一切無縁で、このときも本命視されていたのはロザリンド・ラッセルで、予想では最下位だったヤングの受賞は意外な結果だった。受賞のスピーチでは感極まって「やっとのことで…」と言ったまましばらく絶句したという。女優となって20周年目の出来事であった。同じ年にはケーリー・グラントやデヴィッド・ニーヴンと共演した喜劇でも成功を収め、1949年の作品で二度目のアカデミー賞の候補になった。
1953年に映画の世界から退き、まだ新しい媒体だったテレビに進出した。当時は大物の映画スターがテレビを避けていた時代であり、先駆者となった。1953年から1961年まで、自分の名を冠した番組に出演し、毎回応接間の扉から夜会服で華やかに登場する演出が評判となって、パロディの対象にもなった。この番組はエミー賞を3回受賞し、日本でもNHK総合テレビで1960年から1962年にかけて放送された。1980年代にはテレビ映画『クリスマスの待ち合わせ』に出演して、ゴールデングローブ賞を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- ハーフィズ・アル=アサド (2000年没)
- Andrzej Szczypiorski (2000年没)
- ベッティーノ・クラクシ (2000年没)
- メル・カーナハン (2000年没)
- バーバラ・カートランド (2000年没)
同じ地域に関係する人物
- デヴィッド・マナーズ (1998年没)
- マリヤ・ギンブタス (1994年没)
- トーマス・モラン (1926年没)
- チャールズ・ネイピア (俳優) (2011年没)
- ロバート・B・レイトン (1997年没)