伝記
ボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフは、1551年頃に生まれ、1598年から1605年までロシア・ツァーリ国のツァーリを務めた。コストロマ地方の下級貴族の出身で、父はフョードル・ゴドゥノフ、母はステパニーダである。先祖は14世紀にロシアへ来たタタールだとする説があるが、年代や系譜の食い違いから歴史家は疑問を呈している。若いころにはオプリーチニキ隊に所属し、1570年あるいは1571年に、イヴァン4世の寵臣マリュータ・スクラートフの娘マリヤと結婚して、権勢を得る道を開いた。有能な顧問官としてイヴァン4世の信任は厚く、1580年には大貴族に叙せられ、妹イリナが皇子フョードルの妃となる栄誉にも恵まれた。
1584年にイヴァン4世が死に、義弟がフョードル1世として即位すると、ボリスはその摂政団の一員となった。1588年までに大貴族のヴァシーリー・シュイスキーなどのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導した。1591年、フョードル1世の異母弟ドミトリーが謎の死を遂げると、ボリスはシュイスキーに死因の調査を命じた。シュイスキーは、ナイフを持って遊んでいたドミトリーがてんかんの発作を起こし、喉を傷つけたのだと事故死の判断を下した。しかしドミトリーは子のない兄の事実上の後継者だったため、ツァーリの座を狙うボリスの仕業だという噂が広まり、これは彼の人生に重くのしかかることになる。確固とした証拠がなく、この時点では大きな影響はなかった。
摂政としての彼は、外交ではイングランドと友好を強め、1590年からの戦いに勝ってフィンランド湾沿岸部を回復した。西シベリアへの進出も成功し、イェルマークのコサック傭兵軍団が1598年にシビル・ハン国を滅ぼした。1589年にはモスクワ総主教座が置かれ、正教会内でのモスクワの地位が高まった。一方、国は飢饉と重税で逃亡農民が激増し、労働力不足と税収の落ち込みに苦しんでいた。ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。1598年1月、男子のないフョードル1世が没してリューリク朝が絶えると、義兄の彼は全国会議でツァーリに選ばれた。貴族会議による権限制約を拒むと、リューリクの流れをくまない者は帝位につく出自でないとの反発が貴族から起こり、彼はフョードル・ロマノフら有力貴族を失脚させて反対派を力で抑え込んだ。
治世には凶作や飢餓、疫病が各地で猛威をふるい、農民や逃亡奴隷が暴動を起こし、政府の対応策は意味をなさなかった。1604年、死んだはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、ポーランド人やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。ボリスは「偽ドミトリー」と呼んだが、多くの人々は本物の皇子と信じ、支持は全国に広がった。すでに体調が悪化していたボリスは、1605年4月23日(ユリウス暦4月13日)に急死し、息子がフョードル2世として即位した。彼は黒髪で長身の端正な容貌で、猜疑心が強い性格だったらしい。西欧の文化に心酔し、娘クセニヤや息子に西洋志向の高度な教育を受けさせた。19世紀始めの歴史家カラムジンは彼を「オリバー・クロムウェルのような性質の持ち主」と評した。ドミトリー暗殺説は300年以上信じられてきたが、近年は疑問視され、事故説が有力とされる。生涯はプーシキンの史劇やムソルグスキーの歌劇の題材となっている。
同じ年に亡くなった人物
- マリーノ・グリマーニ (1605年没)
- ハインリヒ・クンラート (1605年没)
- フョードル2世 (1605年没)
- ヤン・ザモイスキ (1605年没)
- ウリッセ・アルドロヴァンディ (1605年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドル・ヴィノグラードフ (1975年没)
- アゴスティニョ・ネト (1979年没)
- ゲンナジー・ヤナーエフ (2010年没)
- コンスタンティン・バディーギン (1984年没)
- ウラジーミル・シューホフ (1939年没)