HISTORICAL PERSON · 307年没

恵帝 (西晋)

西晋の第2代皇帝で武帝の次男。暗愚で知られ、皇太子時代は賈南風の代筆で廃太子を免れた。治世には八王の乱が相次ぎ、皇后賈南風ら諸王の政争に翻弄され続け、最後は政争の中で不審な死を遂げた。

生涯
307年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

恵帝は、西晋の第2代皇帝である。諱は衷、武帝(司馬炎)の次男で、母は楊艶。兄の司馬軌が早世したため、早くから後継者に指名され、泰始3年(267年)1月に皇太子に立てられた。しかし重臣の間でも資質は危ぶまれ、和嶠は「非常に素直な性格だが、今の世の中には偽りが多く、皇帝の責務を果たすことはできないだろう」と武帝に諫言し、衛瓘は宴席で皇帝の椅子を撫でて「この座惜しむべし」と述べ、遠回しに廃立を勧めた。咸寧4年(278年)10月、武帝が尚書の業務を決裁させて試したときには答えられず、賈南風が給使の張泓に代筆させた。司馬衷がそれを書き直して提出すると武帝は満足し、廃立は取りやめになった。

太熙元年(290年)4月に武帝が崩御して即位すると、皇后楊芷の父である楊駿が朝政を牛耳った。だが翌年3月、楊氏を嫌った賈南風が楚王司馬瑋らと政変を起こし、恵帝に詔を作らせて楊駿を謀反と宣言させた。楊駿の一族は誅殺され、楊芷は幽閉されて後に殺された。続いて賈南風は恵帝に詔を作らせ、司馬瑋に司馬亮と衛瓘を討たせたうえ、その罪を司馬瑋に着せて処刑した。以後は賈氏一派が実権を握ったが、政事は張華・裴頠ら賢臣に委ねられ、この時期の国政は安定した。元康5年(295年)には洪水に遭った諸州に物資を配り、元康8年(298年)には飢饉の雍州で穀物庫を開く詔を出している。

元康9年(299年)12月、賈南風は皇太子司馬遹を陥れ、酔わせて書かせた文章を恵帝に提出した。恵帝は死を下賜すると宣言したが、張華と裴頠が偽作を疑って反対したため、庶人に落とすにとどめた。永康元年(300年)3月に司馬遹は殺された。4月には趙王司馬倫が仇討ちを名目に政変を起こし、賈謐を誅殺し、賈南風も捕らえられて賈氏は滅んだ。司馬倫は相国となり、やがて権力を独占して九錫を受け、永康2年(301年)1月に恵帝から璽綬を奪って帝位を簒奪した。恵帝は太上皇として金墉城に幽閉されたが、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは恵帝が最初である。3月に斉王司馬冏ら三王が決起し、4月に司馬倫が廃されて恵帝は復位した。

その後も八王の乱は続いた。司馬冏は恵帝の批准を仰がず政務を行ったが、長沙王司馬乂に攻められ、三日間の戦いの末に処刑された。恵帝は助命しようとしたが叶わなかった。太安2年(303年)には司馬顒・司馬穎が司馬乂の討伐に動き、東海王司馬越が司馬乂を捕らえて引き渡し、司馬乂は処刑された。永安元年(304年)7月、司馬越が司馬穎討伐の兵を挙げると恵帝は親征したが、蕩陰で大敗し、頬に三本の矢を受けた。百官が逃げるなか侍中の嵆紹だけが身を挺して守ったが、帝のすぐ側で射殺された。恵帝は血の付いた服を「これは嵆侍中の血である。拭き取ってはならん」と言って洗わせなかったという。

その後、司馬穎に迎えられて鄴にいた恵帝は、王浚らの決起で洛陽へ戻ることになった。道中は金銭も物資も乏しく、宦官が隠し持っていた銭三千を借りて食物を得、食事は瓦盆に盛られたという。温県では靴を無くし、従者の靴を履いて先祖の陵に涙ながらに拝礼した。洛陽では張方が長安への遷都を企て、恵帝は竹林に逃げたものの無理に車に乗せられ、涙ながらに従うほかなかった。このように諸王に翻弄され続けた。最終的には政争のなかで不審な死を遂げた。後世の史家王夫之は、匹敵するものがない愚か者で、国を潰したと評した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物