伝記
ケン・キージーは、1935年9月17日にアメリカのコロラド州ラ・ハンタで、牧場を営む農家の息子として生まれた作家である。1946年に一家はオレゴン州スプリングフィールドへ移り、少年期の大半をそこで過ごした。高校でも大学でもレスリングに打ち込み、1956年から57年のシーズンには勝率8割8分5厘を記録し、北西部で最も優れたレスラーに贈られる奨学金を受けるなど優れた成績を収めて、五輪代表の選考に近づいたが、肩の重傷で選手の道を断たれたという。読書と映画を好み、ジョン・ウェインやエドガー・ライス・バローズ、ゼイン・グレイを手本にして、手品や腹話術、催眠術にも凝った。1953年に高校を卒業した。
1956年にオレゴン大学のジャーナリズム・コミュニケーション学部に入ると、高校時代からの恋人で、当時オレゴン州立大学の学生だったフェイ・ハクスビーと駆け落ちして結婚した。のちにキージーは、フェイがいなければ悪名や変な考え、薬に溺れていただろうと語っている。二人は彼が亡くなるまで連れ添い、ジェド、ゼイン、シャノンの3人の子をもうけた。フェイの了解のもと、仲間のキャロリン・アダムスとの間にも1966年に娘サンシャインが生まれ、娘はアダムスと継父ジェリー・ガルシアのもとで育てられた。1957年に大学を卒業すると、文学の授業を受けるうちに創作への関心を深めた。1950年代の終わりには、アメリカ政府がメンロパークで行っていた向精神薬の実験に被験者として参加し、そこでLSDを知って、現実の見方が根本から変わったという。その体験が、最初の長編『カッコーの巣の上で』に大きく生かされ、1962年にこの小説で作家として世に出た。続いて1964年には『わが緑の大地』を発表している。
1964年の夏、キージーは仲間のグループ「メリー・プランクスターズ」を引き連れ、ニール・キャサディの運転する派手な塗装のバスに乗って、全米にLSDを広める旅を始めた。最高級のLSDと特殊なスピーカー、強力な照明機材を積み込み、アシッド・テストと呼ばれる集まりを開いて若者に精神の解放を訴えたこの旅は、のちのビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967年)のモチーフとなったとされる。グレイトフル・デッドが即興の音楽で集まりを盛り上げた。1966年1月にはサンフランシスコで「トリップス・フェスティバル」を開き、入場者にLSDを配って、ジミ・ヘンドリックスらが演奏し、アンディ・ウォーホルらの映画が上映された。このマルチメディアの催しは、後に発展するサイケデリック・ロックの始祖となった。
ジャーナリストのトム・ウルフは1968年に彼らの体験を著書で広めたが、キージーは浅薄でその精神に合わないとして、承認しなかった。同時代のティモシー・リアリーが儀式的で救世主的だったのに対し、キージーは型破りで予測がつかず、独学の人として、アメリカのポップカルチャーの漫画やSF、ロックンロールに着想を求めたという。1960年代の終わりには警察の追及や、同じ表現の繰り返しへの倦怠から、薬物の実験をやめた。それでも没するまでアメリカの反体制のアンダーグラウンドを象徴する人物であり続け、晩年は雑誌に平和についての文章を寄せた。2001年11月10日、オレゴン州の病院で肝臓癌のため亡くなった。
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