HISTORICAL PERSON · 2001年没

レオポール・セダール・サンゴール

セネガルの政治家・詩人。1960年から1980年まで初代大統領を務め、フランス語詩人としても名高く、アフリカ出身者で初めてアカデミー・フランセーズ会員となった。

生涯
2001年没
死亡地
フランス共和国(カルヴァドス県 / Verson)
出生地
セネガル共和国(ジョアル)
出典
世界地図
フランス共和国(カルヴァドス県)

伝記

レオポール・セダール・サンゴールは、1906年10月9日にセネガルのジョアルで生まれた政治家であり詩人である。当時のセネガルはフランス領西アフリカの一部だった。出生証明書では10月9日だが、洗礼証明書には8月9日とあり、食い違いがある。父バジール・ジョゴイ・サンゴールはセレール族の裕福な落花生商人で、母はその3番目の妻だった。ミドルネームのセダールはセレール語で「辱められることのない者」を意味するという。8歳でンガゾビルの寄宿学校に入り、1922年にダカールの神学校に進んだが、聖職は向かないと告げられて世俗の学校に移った。このころからフランス文学に熱中し、フランス語、ラテン語、ギリシャ語、代数で優れた成績を収め、バカロレアの後に奨学金を得てフランスで学ぶことになった。

1928年にフランスへ渡り、本人の言う「16年間の放浪」が始まった。ソルボンヌで学び始めたが退学し、リセ・ルイ・ル・グランで高等師範学校の受験準備をした。同じ学校には後のポンピドゥー大統領もいた。受験には失敗し、文法の教授資格の準備に切り替えて、1935年に2度目の挑戦で取得した。トゥールのリセ・ルネ・デカルトで教えたほか、パリ近郊のサン=モール=デ=フォセのリセでも教壇に立ち、高等研究実習院では言語学も学んだ。1935年から1945年にかけて大学でも教えた。民族学者のマルセル・モースらに学んだ。アフリカ系の知識人たちとともにネグリチュードの概念を生み出し、人種差別の侮蔑語だった言葉をアフリカの文化と性格を讃える語に変えた。この考えは、詩作にも政治思想にも指針となった。1939年に植民地歩兵連隊に一兵卒として入隊し、1940年6月にドイツ軍の捕虜となって、植民地兵を収容する捕虜収容所に入れられた。釈放後はレジスタンスと協力した。

戦後は政治家となり、1948年にセネガル民主ブロックを創設した。フランス領アフリカの住民に完全な市民権と政治的権利を与えるべきだと唱え、独立国家に分かれるより連邦のなかにいたほうがよいと論じた。1960年9月6日、独立したセネガルの初代大統領となった。長年の盟友で首相のママドゥ・ジャを1962年にクーデターを企てた疑いで逮捕し、12年間投獄した。その後は一党体制を築いて野党を抑え込んだが、1976年には野党を認め、自身の党に有利な状況は保たれた。国内ではアフリカ社会主義をとり、対外的には親欧米、親仏の姿勢で、チュニジアのブルギバやニジェールのディオリとともに、フランコフォニー国際機関の設立に尽力した。1980年末に大統領を辞し、アブドゥ・ジュフに権力を譲った。

詩人としても名高く、1983年にアフリカ出身者で初めてアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1968年にドイツ書籍協会平和賞、1975年にストルガ詩の夕べ金冠賞、1978年にチーノ・デル・ドゥーカ世界賞を受け、セネガル国歌の歌詞も書いた。詩集は1945年から1979年にかけて発表され、1948年には黒人とマダガスカル人の新しい詩を集めた選集も編んだ。1985年にはイタリアでノニーノ国際賞を受けている。国際空港や競技場、橋には、その名がつけられている。2001年12月20日、フランスのカルヴァドス県ヴェルソンで死去した。95歳だった。

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