伝記
ジョージ・ハリスンは1943年2月25日、リヴァプール郊外のウェイヴァートリー区で、バス運転手の父ハロルドと、敬虔なカトリックの母ルイーズの三男、四人兄弟の末っ子として生まれた。労働者階級の家で、名は当時の国王ジョージ6世にちなむ。6歳のときに一家はアプトン・グリーンに引っ越し、小学校を経てリヴァプール・インスティテュート・ハイスクールに入った。同級生は彼を「独りぼっちで隅に座っているような奴」と評した。ロックンロールに熱中してスキッフル・バンドを作ろうと、最初に手にした楽器はウォッシュボードだった。ギターを持つ兄のピーターと組むつもりだったためである。まもなくギターに興味を移し、13歳で同級生から中古ギターを買って練習を重ね、念願のバンド「レベルズ」を結成した。最初の舞台では、他のバンドが皆出演を辞退したため、持ち曲の少ない彼らは1曲を繰り返して出番をこなしたという。
1950年代半ばにポール・マッカートニーと出会い、紹介されて、ジョン・レノンらのバンド、のちのビートルズの前身であるクオリーメンに加わった。空のバスの2階で行われた即席のオーディションで、難曲といわれたビル・ジャスティスの「ローンチー」を完璧に弾いてレノンに認められたといわれる。ビートルズでは最年少で、主にリードギター、コーラス、ヴォーカルを担当し、20曲以上の自作曲を提供した。初期にはエレクトリック12弦ギター、1960年代半ばにはインドのシタール、後期には初期型シンセサイザーと、新しい楽器をいち早く導入した。1966年6月にロンドンでシタール奏者のラヴィ・シャンカルに会ったのをきっかけに、シタールを学んだ。ビートルズに取り上げられた最初の曲は、1963年の「ドント・バザー・ミー」である。『ラバー・ソウル』や『リボルバー』で数が増え、のちに「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などを世に出した。だが、「自分の曲は1作につき2曲しか入らない」「自由にリードギターを弾かせてもらえない」などの不満を募らせ、他のメンバーとの確執が「ゲット・バック・セッション」でも表に出た。それがビートルズ解散の一因になったともされる。
1968年11月にビートルズの仲間に先駆けて初のソロ・アルバム『不思議の壁』を、1969年には『電子音楽の世界』を出した。1970年に出したソロ作『オール・シングス・マスト・パス』は3枚組ながら全米・全英で首位となり、「マイ・スウィート・ロード」は米英で連続1位に輝いた。同曲は、シフォンズの曲に似ているとして著作権侵害で訴えられた。1971年にはシャンカルに頼まれ、東パキスタンの難民救済を目的に、8月1日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ロック界初の大規模なチャリティー・コンサートを開き、ライヴ盤はグラミー賞の年間最優秀アルバムを得た。1973年の「ギヴ・ミー・ラヴ」はビルボード誌で首位となり、1974年にはダーク・ホース・レコードを設立した。1978年にオリヴィア・トリニアード・アリアスと再婚し、同年、友人エリック・アイドルが属するモンティ・パイソンの映画『ライフ・オブ・ブライアン』の資金が絶たれると、ハンドメイド・フィルムスを設立して400万ドルを出資した。2001年11月29日、肺癌と脳腫瘍のため亡くなった。
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