伝記
アフマド・シャー・マスードは、1953年、アフガニスタンのパンジシール渓谷にあるジュンガラック村に、王国陸軍大佐ドースト・ムハンマドの三男として生まれたタジク人の軍人、政治家である。本名はアフマド・シャーという。一家はのちにヘラートに短く住み、やがてカーブルに移った。少年はフランス語で教育が行われたカーブルの高等中学校で学んで秀才とされ、ペルシア語、パシュトー語、ウルドゥー語、フランス語を話し、英語を読むことができたという。1972年にカーブル工業大学の建築学科に進むと同時に、イスラム青年運動に加わった。1973年にダーウードがクーデターで政権を握ると、イスラム主義の運動が力を増し、共産主義やソ連の影響の拡大と、パシュトゥーン人を優遇する中央集権的な政策に反発が強まった。マスードは学業を断念して故郷へ戻り、1974年にクーデター失敗後の弾圧を恐れてパキスタンへ移った。そこでブルハーヌッディーン・ラッバーニーがイスラム主義政党「イスラム協会」を設立すると、そのメンバーとなり、以後も一貫してラッバーニー派として活動した。「幸運なる者」を意味するマスードの名を同志名として名乗ったのは、このころからである。
1975年、パンジシールで失敗に終わった蜂起に加わり、指導者たちがペシャワールに逃れると、党は漸進的な権力掌握を唱えるタジク人中心のマスード、ラッバーニー派と、武装闘争を望むパシュトゥーン人中心のヘクマティヤール派に深く分裂した。ヘクマティヤールは22歳だった若いマスードの暗殺を試みたとされる。1978年に共産党のハルク派が政権を握り、聖職者への迫害や土地改革で農村の反感が高まると、マスードはパンジシールで武装蜂起したが、最初は失敗した。以後は正面からの衝突を避けてゲリラ戦を行い、やがてパンジシールを完全に掌握して政府軍を追い出した。1979年のソ連のアフガニスタン侵攻後は反ソ連軍ゲリラの司令官となり、ソ連軍の大規模な攻撃を何度も撃退して、「パンジシールの獅子」と呼ばれた。1988年5月にソ連軍の撤退が始まると、ソ連兵の捕虜を自発的に解放し、撤退を妨げないと約束した。
1992年にムジャーヒディーンがカーブルを占領してラッバーニー政権が誕生すると、国防相と政府軍司令官を務めた。その後、同政権が崩壊してターリバーンが勢力を伸ばすと、これに対抗する勢力が北部同盟として結集し、マスードは副大統領、軍総司令官、国防相となった。1996年にターリバーンがカーブルを包囲した際には、これ以上首都と民衆に被害を及ぼせないとして撤退し、約3000冊の蔵書を持ち出している。北部同盟の勢力圏は北部の山岳地帯に限られ、領土は国土の約10パーセント、人口では約30パーセントを掌握していた。大の読書家で、好きな作家はヴィクトル・ユーゴーで、反共主義者でありながら毛沢東の作品から多くを学んだと公言した。家族は妻と1男5女である。2001年9月9日、ジャーナリストを装った2人のアラブ系の男による自爆テロで暗殺され、これはアメリカ同時多発テロ事件の2日前のことだった。遺体は故郷の村を望む丘に埋葬され、のちに「アフガニスタン国家英雄」の称号を追贈された。
同じ年に亡くなった人物
- マウロ・ボロニーニ (2001年没)
- Ken Green (2001年没)
- Regine Cavagnoud (2001年没)
- ニコライ・バソフ (2001年没)
- Kurt Hoffmann (2001年没)
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