伝記
ジョヴァンニ・レオーネは、1908年11月3日にナポリで生まれたイタリアの政治家、法学者で、第6代大統領を務め、首相も二度経験した。父マウロと母マリア・ジョッフレーディはともにポミリアーノ・ダルコの出身で、彼はその間に生まれた。父は著名な弁護士で、カンパーニア地方でのイタリア人民党の結成にもかかわっていた。ポミリアーノ・ダルコで育ち、古典高等学校を1924年に卒業した。
1929年に名門のナポリ大学で法学を修め、論文は1931年に出版された。翌年には社会政治学の学位も得た。学生時代にはカトリック・アクションの会員となり、卒業後はエンリコ・デ・ニコラの法律事務所で働き、カメリーノ大学で刑事訴訟法を教えた。1930年代には南イタリアでも指折りの弁護士、法学者となり、メッシーナ、バーリ、ナポリの大学で教えて、国際刑法学会のイタリア支部の会長にも選ばれた。第二次世界大戦中はナポリの軍事法廷の判事となり、中佐の階級にあった。1943年9月の休戦の後、ドイツ軍の占領下という劇的な日々に、多くの政治犯や脱走兵を釈放させるために働いた。同僚の紹介で知り合ったヴィットーリア・ミキットと1946年7月に結婚し、四人の息子をもうけたが、末の子ジューリオは4歳で亡くなっている。
1943年に父とともに、アルチーデ・デ・ガスペリ率いるキリスト教民主党の結成に加わり、1945年にはナポリ県の書記に選ばれて、党の主要人物となった。1946年の王政廃止をめぐる国民投票では中立を主張する有力者の一人で、同年に制憲議会議員に当選して政界入りした。法学者として、新しい共和国憲法の草案をまとめる委員会にも加わった。1948年4月には代議院議員に選ばれたが、弁護士と大学の仕事を優先し、政府の役職は望まないとしばしば語ったという。党内の派閥には深入りしなかったものの、党の保守派に近いとみられていた。
どの派閥からも一目置かれていたため、1950年に代議院の副議長、1955年5月からは議長となり、1963年6月まで務めた。制度への強い意識と議会の運営手腕で名を知られた。1963年の総選挙でキリスト教民主党は約100万票を失って得票率は38%近くにとどまり、共産党が25%で第2党となり、自由党は過去最高の7%に伸びたが、その票には、ファンファーニの中道左派路線に反対する元支持者のものが多かった。党の多数派は6月22日、ファンファーニに代わる暫定内閣をレオーネに託すことを決めた。同党の議員だけの内閣を組織したが、12月に辞任した。1968年の総選挙後の6月にも首相に就いたが、同じく12月に辞任している。
1971年に大統領に選ばれたが、任期中にコレラが流行した。地元ナポリを視察した際、患者の手を握りながら後ろ手で悪運払いの身ぶりであるコルナを作っていたことが発覚し、批判を浴びた。さらにロッキード社からの賄賂の疑惑(ロッキード事件)が持ち上がり、1978年に任期を半年残して辞任した。不祥事を理由に辞任した最初のイタリアの大統領となったが、疑惑はのちに事実無根とされ、名誉は回復された。2001年11月9日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- デヴィッド・グラフ (2001年没)
- カール=エドゥアルト・フォン・シュニッツラー (2001年没)
- アルディト・デジオ (2001年没)
- アブドゥルアズィーズ・アル=オマリー (2001年没)
同じ地域に関係する人物
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- ハビエル・エチェバリーア・ロドリゲス (2016年没)
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