伝記
ジャック・レモンは、1925年2月8日にマサチューセッツ州ニュートンのニュートン・ウェルズリー病院で生まれたアメリカ合衆国の俳優である。本名はジョン・ユーラー・レモン三世という。8か月の早産で、生まれたのは病院のエレベーターの中だったと伝わる。黄疸のため、立ち会った看護婦に「黄色いレモンみたい」と言われたという。ドーナッツ会社の幹部で元ミュージカル俳優だった父ジョン・ユーラー・レモン・ジュニアと、元歌手の母ミルドレッドとの一人っ子で、アイルランド系の父のもと、カトリックとして育てられた。両親の結婚生活は円満ではなく、彼が18歳のときに別居した。子どものころは病気がちで、10歳になるまでに耳の大きな手術を3回受け、12歳になるまでに入院した期間は2年に及んだ。
8歳のころから俳優になりたいと思っていたと、のちに語っている。学校の芝居に出て、フィリップス・アカデミーでは陸上競技で成果を上げ、ハーヴァード大学に進んで、化学と薬学を学んだ。演劇以外はさほど目立つ学生ではなかったが、ドラマチック・クラブに入って演劇活動を始め、ハスティ・プディング・クラブの会長も務めた。成績不振のため舞台に立つことを禁じられても、規則を破って偽名で役を演じたという。戦時中は海軍の少尉として空母で通信士官を務め、除隊後に大学へ戻って1947年に卒業した。その後、本格的に俳優を志し、父から300ドルの援助を受けてニューヨークへ出た。バーでピアノを弾いて暮らしを立てながら、ラジオドラマから経歴を始め、まもなくテレビにも出るようになった。この頃知り合った俳優仲間のシンシア・ストーンと結婚し、1954年に息子クリスが生まれたが、1956年に離婚した。1950年代前半にはラジオとテレビのドラマに500本ほど出演したという。
1953年にブロードウェイの舞台に立ち、その年のジュディ・ホリデイとの共演が評判を呼んで、コロムビアと契約した。映画デビューの際、社長ハリー・コーンは名前が不良品を意味する英語に通じることを嫌い、改名を求めたが、彼は拒んで本名で通した。1954年に映画に本格的に出演し、1955年の『ミスタア・ロバーツ』でアカデミー助演男優賞を受賞した。1959年の『お熱いのがお好き』でビリー・ワイルダー監督に起用されてからは常連となり、当初はただの喜劇俳優と見られたが、1960年の『アパートの鍵貸します』の冴えない会社員や、1962年の『酒とバラの日々』のアルコール依存症の男など、深刻な演技も見せた。1973年の『セイブ・ザ・タイガー』でアカデミー主演男優賞を受賞し、助演と主演の両方を得た最初の俳優となった。
1962年に女優のフェリシア・ファーと再婚し、1966年に娘コートニーが生まれた。1966年の『恋人よ帰れ!わが胸に』以来、ウォルター・マッソーとは名コンビとして何度も共演し、1971年にはマッソー主演の『コッチおじさん』を監督した。1979年の『チャイナ・シンドローム』と1982年の『ミッシング』で、カンヌ国際映画祭の男優賞を受けた。2000年7月に盟友マッソーを亡くしてから、体調を崩した。晩年に『アクターズ・スタジオ・インタビュー』に出演した際、自分がアルコール依存症であることを告白して周囲を驚かせた。2001年6月27日夜、ロサンゼルスの病院でガンの合併症により没した。
同じ年に亡くなった人物
- チェット・アトキンス (2001年没)
- ンコシ・ジョンソン (2001年没)
- ファディル・ホッジャ (2001年没)
- アブドゥルアズィーズ・アル=オマリー (2001年没)
- アン・ヘイニー (2001年没)
同じ地域に関係する人物
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- ロイ・ロバーツ (1975年没)
- ナンシー・ケリー (1995年没)
- エルネスティーネ・シューマン=ハインク (1936年没)
- ウィルト・チェンバレン (1999年没)