伝記
アレクサンドリアのメナスは、エジプトの殉教者であり聖人である。ミーナーとも表記され、285年にメンフィスの近くで生まれ、309年ごろに没したとされる。父ユードキウスは、現在のミヌーフィーヤ県にあたる地域の知事を務めていた。両親は敬虔なキリスト教徒で、メナスは幼いころからキリスト教徒としての教育を受けて育った。母の名はエウフェミアといい、子に恵まれずにいたが、聖母マリアの祝日にイコンの前で涙ながらに祈ると、イコンから「アーメン」という声が聞こえた。数か月後に男の子が生まれ、その日を思い出して「メナス」と名づけたと伝わる。
父は11歳のときに、母は14歳のときに亡くなったとされ、孤児となったメナスはローマ軍に入隊した。別の伝えでは、父を失ったのは14歳のときで、15歳で入隊して父の名声のゆえに高い地位を与えられ、任地はアルジェリアだったという。303年、ディオクレティアヌス帝はそれまで寛容だったキリスト教への方針を改め、ローマの神々への供犠を義務づける勅令を出し、従わないキリスト教徒を厳しく弾圧した。そのころ小アジアで軍務に就いていたメナスは棄教を拒み、無断で軍を離れて荒野に入り、牧童として宗教的な生活を送った。
5年間の宗教生活の後、メナスは神から3つの啓示を受けた。神は禁欲を守ったこと、誓いに従って独身を貫いたことをたたえ、迫害に耐えて殉教すると告げた。使命を悟ったメナスは、故郷に残した資産を貧しい人々のために使うよう遺言し、祭礼の日に町の中で自分がキリスト教徒であると公言して捕らえられた。激しい拷問で棄教を迫られたが拒み続けた。鞭の傷は人間の限界を超えるものだったが、不思議なことに受けた傷はその都度治ったという。勇気ある姿は、居合わせた多くの人々をキリスト教の信仰へ、さらには殉教へと導いたとも伝わる。
改宗をあきらめた役人はメナスを斬首し、遺体を焼いた。ところが遺体は灰にならず、元の形を保って光り輝いていたという。遺体は故郷のリビアへ送られることになり、海路でアレクサンドリアへ運ばれる途中、長い首を持ち、背にラクダのような瘤のある巨大な怪獣が海中から現れて船を襲った。そのとき遺体から光線が放たれ、浴びた怪獣はおとなしくなった。アレクサンドリアからラクダで運ぶ途中、ラクダが動かなくなり、別のラクダに替えても同じだった。これを神意と受け取り、その場に遺体を埋葬して小さな堂を建てた。堂がなかば忘れられた100年後、足の悪い牧童がそこで休むと、悪い足に光が当たる夢を見た。目覚めると足は治り、光が放たれていたという。別の牧童は、その地の泥沼で砂浴びをした羊の疥癬が治ったと報告し、埋葬地の話は地域に広まった。のちに聖地アブ・メナと呼ばれ、巡礼地として栄えた。
メナスは戦士聖人と呼ばれ、商人や旅行者の守護聖人と信じられた。3つの啓示と2つのラクダの逸話から、肖像には3つの王冠や2頭のラクダを描いた図柄が多い。エジプトのアパ・アポラ修道院の遺跡から発掘された6世紀のイコンには、イエス・キリストと聖メナスが肩を組む姿が描かれ、現在はコプト美術の代表作としてパリのルーヴル美術館に保存されている。祝日はコプト正教会で11月24日、カトリックと東方正教会で11月11日とされる。テゼ共同体の創設者ブラザー・ロジェが特に愛したことから「友情のイコン」と呼ばれ、テゼの祈りの集いで用いられる象徴となっている。
同じ年に亡くなった人物
- マルケルス1世 (ローマ教皇) (309年没)
- セスキアのクイリヌス (309年)
- アードゥルナルセ (309年没)
- パンフィロス (309年)
- ホルミズド2世 (309年没)