伝記
アンティゴノス1世は、アレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニアの将軍で、大王の死後は後継者(ディアドコイ)の一人となり、アンティゴノス朝の初代の王となった人物である。紀元前382年ごろに生まれ、紀元前301年に没した。戦傷で片目を失ったとされ、「隻眼」を意味するモノフタルモスのあだ名で呼ばれた。貨幣の肖像が右向きであることから、失ったのは左目と推測されている。
父はピリッポスという貴族で、農民の出とする説もあるが、実際には名門の出だった可能性が高いとされる。ピリッポス2世の時代から軍で重んじられ、アンティパトロスやエウメネスと親交を結んだ。紀元前334年、大王の東方遠征が始まると、フリュギアの太守として小アジアに残された。ここで彼は、大王の補給線と連絡路を守るという役目を果たした。反撃してきたペルシア軍を三度の戦いで三度とも破り、その後リュカオニアなどを征服した。
紀元前323年に大王がバビロンで没した後もこの地方を治め続けたが、友人エウメネスがカッパドキア遠征のための援軍を求めたとき、恐らく小アジアでの競争相手になることを恐れて断った。これが摂政ペルディッカスの不興を買い、彼はギリシアへ逃れてアンティパトロスやプトレマイオスと結んだ。ペルディッカスはエジプト遠征に失敗して、部下の将軍たちに暗殺される。紀元前321年、トリパラディソスの軍会で、アンティゴノスは帝国の全軍総司令官に任じられ、エウメネスらペルディッカス派の追討を命じられた。オルキュニアの戦いでエウメネスを破り、ノラに追い詰め、クレトポリスの戦いではペルディッカスの弟アルケタスを自害に追い込んだ。マケドニア本国でアンティパトロスが没し、ポリュペルコンが後継に指名されると、摂政の座を争う戦いが激しくなり、彼はカッサンドロスの側に立った。
紀元前316年にはガビエネでエウメネスを降した。味方に引き入れようとしたが部下の反対で断念し、餓死させる考えだったところ、行軍の混乱のなかで部下に喉を切られたと伝わる。エウメネスの葬儀は盛大に営まれ、遺灰は銀の壺に納められて妻子のもとへ送られた。この頃までに小アジアを中心にシリアやメソポタミアに及ぶ勢力を築き、ディアドコイの中でも突出したため、他の将軍たちに警戒された。紀元前315年にはバビロニア太守セレウコスの領土を奪って逃亡させ、カッサンドロスとの同盟も破棄してギリシアへ遠征を始めた。紀元前312年、プトレマイオスがセレウコスとともにシリアに攻め込み、息子デメトリオスはガザで敗れた。その隙にセレウコスはバビロニアを取り戻した。
紀元前306年、サラミスの海戦でデメトリオスがプトレマイオスに勝つと、彼は息子と並んで王位に就くことを宣言し、他のディアドコイもこれに続いて王を称した。父子はロードス包囲戦でも優位に立ち、ギリシアへ進んで、紀元前302年にはヘラス同盟を結成した。これを恐れたセレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは同盟を結んで対抗した。紀元前301年、小アジアのイプソスで、セレウコスとリュシマコスの連合軍と決戦に及んだが、デメトリオスの部隊と分断されて孤立し、投槍を受けて戦死した。82歳だったといわれる。彼の死により、大王の帝国を再統一するという大望は潰え、分裂は決定的になった。一方、息子デメトリオスは生き延び、紀元前294年にはマケドニアの支配権を握った。
同じ年に亡くなった人物
- ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥス (紀元前 301年(推定))
- シュラクサイのカリッポス (紀元前301)
- Glaucias of Taulanti (紀元前301)
- ラゴス (紀元前301)
- Mithridates II of Cius (紀元前301)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドリアのメナス (309年没)
- Artakama (紀元前400)
- ゴルディアヌス1世 (238年没)
- アルキビアデス (紀元前404年没)