HISTORICAL PERSON · 310年代没

パタラのメトディオス

4世紀初期に殉教したギリシャ教父の一人で主教。オリゲネス異端に反対する著作を遺し、婚姻に関する教えは聖師父のものとして貴重とされる。311年か312年頃、迫害で捕らえられ斬首された。

生涯
310年代没
死亡地
ギリシャ共和国(中央ギリシャ / ハルキス)
出生地
トルコ共和国(リュキア)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央ギリシャ)

伝記

パタラのメトディオスは、4世紀初めに殉教したギリシャ教父の一人で、主教である。正教会とカトリック教会で聖人とされ、正教会では神品致命者として記憶される。生年は分からず、没年は311年もしくは312年頃とされる。名の転写には揺れがあり、現代ギリシャ語からは「メソディオス」とも書け、日本正教会では教会スラヴ語再建音から「メフォディ」「メホディ」とも転写される。

任地ははっきりしていない。正教会ではリュキア地方のパタラの主教として語られ、カトリック教会など西方教会ではリュキアのオリュンポスの主教として「オリンポスのメトディオス」と呼ばれる。パタラの主教とする伝承は6世紀末に現れたもので、オリュンポスの主教とする説は広く受け入れられている。ヒエロニムスはオリュンポスの主教で、のちにティルスの主教になったと述べたが、ティルスの主教だったことは疑わしいとされる。ほかにもマケドニアのピリッポイの主教だったとする説があり、いくつかの写本がそう記しているほか、435年にアンティオキアのヨハネがギリシャとイリュリアの主教の中に数えたことが根拠に挙げられている。伝わる事績が少なく、生涯についての報告には難点が多い。ただ、真の修道的謙遜によって知られていたと伝えられる。

メトディオスは幅広い哲学的教養を備えた神学者で、多作で洗練された著述家だった。作品の年代は3世紀末から4世紀初めのあいだとしか言えない。各種の異端に反駁し、とりわけオリゲネスの説に反対した最初の体系的な論者である。復活のときの人間の体は生前と同じ体ではないという説と、世界は永遠であるという考えを特に攻撃した。プラトンの哲学に強く影響され、聖書の寓意的な解釈を多く用いた点ではオリゲネスと共通していた。

多くの著作のうちギリシャ語で完全な形が伝わるのは、『饗宴、または純潔について』の対話篇だけである。プラトンの『饗宴』にならい、アレテの園で十人の処女が宴を開き、それぞれがキリスト教の純潔を称え、最後にイエスを教会の花婿とする賛歌で結ばれる。ほかに、悪の起源についてのグノーシス主義の見方を退け人間の意志の自由を論じた『自由意志について』と、オリゲネスに反対して生前と同じ体が朽ちない姿でよみがえると説く『復活について』があり、どちらも大きな部分がギリシャ語で残る。さらに生活、ユダヤ人の食物規定、らい病、ヒルなどを論じた短い論考がスラヴ語訳でのみ伝わる。ヒエロニムスはポルピュリオスに反対する大著、創世記と雅歌の注解なども挙げているが、現存しない。聖書の註解、倫理についての説教、婚姻と出産に神学的根拠を与える著作もあり、婚配に関する教えは、修道士であった聖師父が多く関心が薄かったこともあり貴重とされる。7世紀の『メトディウスの予言書』は、彼に帰せられているが偽書である。

エウセビオスは『教会史』でメトディオスに触れていない。オリゲネスに好意的だったエウセビオスの故意によるとの説がある。最期については、311年もしくは312年頃、キリスト教を迫害していたローマ帝国当局に捕らえられ、斬首されたとされる。ヒエロニムスは、最後の迫害の終わりにギリシャのカルキスで殉教したと述べ、デキウスとウァレリアヌスの時代とする説もあるとつけ加えたが、ポルピュリオスに反対する著作があることから、後者は考えにくいとされる。記憶日は6月20日で、ユリウス暦使用教会ではグレゴリオ暦の7月3日にあたる。

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