HISTORICAL PERSON · 313年没

懐帝 (西晋)

西晋の第3代皇帝。永嘉の乱で匈奴の劉聡に捕らえられ、酒宴で杯を注ぐ屈辱的な役目を強いられた末、平陽で処刑された。西晋滅亡の直接の契機となった。

生涯
313年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

懐帝は、西晋の第3代皇帝である。諱は熾、字は豊度。初代皇帝武帝(司馬炎)の第25子で、母は妃の王媛姫。284年に生まれ、313年に30歳で没した。

太熙元年(290年)に豫章王となった。八王の乱で皇族たちが権力を争うなか、軍事や政治に関わらず、史書を読んで過ごしたという。永興元年(304年)、恵帝が長安へ移されると、豫章王も同行を強いられた。やがて皇太弟司馬穎が退けられ、豫章王が代わって皇太弟とされた。当初は、かつて皇太子だった甥の清河王司馬覃を戻すべきだと考えて辞退しようとしたが、側近に説得されて受けたという。306年末(光熙元年11月)に異母兄の恵帝が崩御すると、東海王司馬越に擁立されて即位した。恵帝の皇后の羊献容を恵皇后とし、母の王媛姫を皇太后に追尊し、妃の梁蘭璧を皇后とした。

聡明な人物と見られ、八王の乱とその後の混乱から帝国を立て直そうと改革を試みたが、司馬越が権力を固く握り、皇帝に実権をほとんど与えなかった。即位の翌年(307年)の3月には豫章王司馬詮を皇太子とし、司馬越らを許昌や襄陽、鄴、長安に出鎮させ、琅邪王司馬睿を建業に出鎮させた。この間に、東萊で王弥が反乱を起こし、308年には匈奴の劉淵が山西南部を勢力下に収めて漢を建て、皇帝を称した。中原に住む五胡が八王の乱に乗じて自立し、西晋を攻撃したので、朝廷の威令は失われた。宮廷内でも懐帝と司馬越は対立し、309年には司馬越が突然洛陽に戻り、懐帝の母の兄弟の王延ら10人余りを殺害した。懐帝は私的に悼むほかなかったとされる。司馬越は禁衛兵も解散させ、自分の軍に皇帝の護衛を任せた。

310年に劉淵が没して劉聡が継ぐと、漢は洛陽方面への攻撃を再開した。司馬越は洛陽を出て許昌へ向かい、懐帝は311年正月、司馬越に不満を持つ苟晞に討伐の密詔を出した。司馬越は苟晞を攻撃し、3月に懐帝が司馬越の罪状をあげて各地に討伐を命じるなか、憂いのうちに没した。その軍を引き継いだ王衍は、石勒の攻撃を受けて壊滅し、王衍ら10万余りが殺された。6月、劉曜・王弥・石勒の攻撃で洛陽は陥落した。懐帝は長安へ脱出しようとしたが、皇太子の司馬詮とともに劉曜に捕らえられ、軍官民の死者は3万余りに上った。これを永嘉の乱という。

平陽へ連行された懐帝は、劉聡によって会稽公(のち会稽郡公)に封じられ、儀同三司とされた。一方で、奴僕の服を着せられて酒宴で酒を注ぎ、杯を洗い、劉聡の外出には日除けの傘を持たされ、人々から晋の皇帝の成れの果てと嘲られた。劉聡は豫章王のころに会った思い出を語り、一族が争って今日に至った理由を尋ねたが、懐帝は「これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです」と答えた。夕方になると懐帝は退出した。劉聡は劉貴人を妻として与え、会稽国夫人とした。312年、長安では甥の司馬鄴が皇太子に擁立された。313年にその政権が活発になると、劉聡は懐帝を疎ましく思うようになった。宴で酒を注がされる懐帝を見て庾珉・王儁らが慟哭して劉聡の不興を買い、そのうえ王儁らが劉琨に呼応しようとしているとの密告があった。懐帝は平陽で処刑された。劉聡は王儁ら晋の旧臣10人余りも誅殺し、劉夫人を自らの貴人に戻した。皇后の梁蘭璧は、乱のなかで行方不明となった。司馬鄴も317年に劉聡に殺され、西晋は滅亡した。

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