HISTORICAL PERSON · 1085年没

程顥

北宋の儒学者で、明道先生と称された。弟の程頤と共に周敦頤に学び、「二程子」と呼ばれて朱子学・陽明学の源流の一人となった。万物一体の「仁」を説き、『定性書』『識仁篇』が学説をよく表す。

生涯
1085年没
死亡地
中華人民共和国(河南省)
出生地
中華人民共和国(黄陂区)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

程顥は、1032年に生まれた北宋の儒学者で、字は伯淳、明道先生と呼ばれた。弟の程頤とあわせて二程子と称される。出身は河南府伊陽県とされる。祖父は黄陂の県令で、在職中に死去した。父の程珦はまだ幼く、洛陽に戻ることができず黄陂で育ち、のちに県令となった。程顥は15歳ごろから、弟とともに周敦頤に学んだ。師の高潔で洒脱な姿や名利に動かされない態度に触れ、科挙のためだけの学習を嫌い、内面の充実を求めるようになった。一時は老荘思想や仏教に引かれたが、再び六経の研究へ戻った。1057年、26歳で進士の試験に合格した。

官界では礼儀を扱う官職や監察官、税や関税を扱う職務などを務め、軍の儀礼に関わる官職も経験した。38歳ごろには中央の役人となったが、王安石と意見が合わず、その後は鄠、上元、沢州、汝州などの地方官として過ごした。民を傷ついた者のようにいたわるという文王の精神を座右の銘とし、誠実さによって民を感化することを政治の要と考えた。温厚な人柄で慕われる一方、実務にも優れ、善政を行ったため、学問と実務の双方を備えた通儒全才と称された。扶溝と嵩陽には学校を設けた。学問の目的は人を聖人にすることにあり、知性だけを磨いて聖人に至らなければ、学びの目的を失うと説いた。

その学問では、天地万物を自分と一体のものとして捉えることが仁であった。医学で手足が麻痺して痛みを感じない状態を不仁ということに着目し、人の苦しみを感じられない心も不仁であり、感じ取れる心こそ仁であると考えた。この仁を体得するには誠敬の心が必要で、自分だけにこだわる心や不自然な作為を避けるべきだとした。書斎の窓に生えた雑草を刈らず、天地の生命の働きに常に心を向けていたともいわれる。周敦頤も草木の意思と自分の意思を同じものと考えており、師弟は万物一体の考えを共有していた。宇宙の万物は陰陽二気の交感によって生じ、事物の違いは陰陽の混ざり方の偏りによると考えた。多様な現象を秩序づける法則を理と呼び、それを直観によって把握するよう説いた。形あるものと形ないものを区別し、見えない普遍の原理が感覚で捉えられるすべてのもののうちにあると考えた。その原理の不思議な働きを強調するときは神と呼び、出来事を支配する面に注目するときは帝と呼んだ。人に与えられたものとしては性と捉えた。道の外に物はなく、物の外に道はないという考えも示した。弟とともに天体や宇宙を研究し、天を導く原理として理を捉えた。『定性書』と『識仁篇』には、その学説がよく表れている。

1085年7月9日に死去した。弟の程頤が兄の着想を分析し理論化したのに対し、程顥が重んじた直観の傾向は、のちの陸九淵に受け継がれた。兄弟は周敦頤、張載、邵雍、司馬光とともに北宋六先生に数えられ、朱子学や陽明学の源流となった。宋代の新しい儒学の創始に関わった人々として、後世の朱熹らとともに位置づけられている。1220年には皇帝から諡号が贈られ、1241年には河南の伯に相当する称号、1330年には豫国の公に相当する称号を追贈された。子孫は五経博士の称号を受け継いだ。兄は快活でくつろいだ人、弟は厳格な人として伝えられた。

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