伝記
マテオ・リッチは、1552年10月6日、当時ローマ教皇領に属したイタリアのマチェラータに生まれた。1568年にローマで法学を学ぶために出たが、そこでイエズス会に関わる若者の集まりに通うようになり、1571年8月15日、父の意に反してイエズス会への入会を願い出た。のちにイエズス会の学院、現在のグレゴリアン大学に当たるコレジオ・ロマーノで、数学や天文学などを含む学問をクラヴィウスらのもとで学んだ。アジアでの宣教を志願し、1577年にリスボンへ着いてポルトガル語を学び、1578年3月24日にリスボンを出て、同年9月13日にインドのゴアに到着した。1580年に司祭に叙階されている。
1582年、東インド管区の巡察師ヴァリニャーノの招きでマカオに移り、すでに研究を始めていたミケーレ・ルッジェーリとともに中国語と中国文化を学んだ。ヴァリニャーノが示した適応政策は、アジア人を野蛮人と見なしてヨーロッパ式を押し付けるのではなく、現地の文化を尊重するというものであった。リッチもこれに従い、中国南部の都市を転々としながら、中国の儒者の服を着て中国式の生活を送り、中国文化の研究に励んだ。学識、特に科学知識が知られるにつれて入門者が増え、1598年についに北京にたどりついたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵のあおりで南京に移り、1601年に再び北京に入って、高級官吏の紹介を受け、万暦帝の宮廷に入ることに成功した。
中国名を利瑪竇と名乗り、ラテン語のデウスの漢語訳には「天主」を用いた。リッチの考えでは、中国の伝統的な語である「天」や「上帝」は、キリスト教の観念と一致するものだった。キリスト教を中国文化に適応させるため、中国人の祖先崇拝の習慣も受け入れたが、これが後に典礼論争を呼び、結果として中国でのキリスト教の禁止に至ることになる。中国では、キリスト教の教えを説いた『天主実義』、精巧な世界地図『坤輿万国全図』(1602年)、ユークリッド幾何学の漢訳『幾何原本』(1607年)などを刊行し、東西文化の懸け橋となった。あわせて中国文化をヨーロッパに好意的に紹介し続けた。1583年には肇慶を追放されて韶州へ拠点を移し、1590年にはユークリッド『原論』第1巻の翻訳に取り組んでいる。1594年にはヴァリニャーノの命で僧服を脱ぎ、髪とひげを伸ばして絹の服を着ることが許され、1595年に南京へ移ると、初めて儒服を着た。最初の漢文著書は友情論の格言集『交友論』(1595年)で、のちに『畸人十篇』(1608年)も著した。この書は、平田篤胤に影響を与えたとされる。李之藻の筆記による『渾蓋通憲図説』では、クラヴィウスの書の部分訳と地球球体説を説明した。『坤輿万国全図』が日本に伝わったように、漢語に訳された新知識は日本にも影響を与えた。
中国文化に精通した人格者で、『農政全書』を著した徐光啓や李之藻ら多くの知識人がキリスト教徒となった。1610年5月11日に北京で死去し、万暦帝によって阜成門外に墓が作られた。彼の業績と順応政策は、アダム・シャールやフェルビーストなど、明・清の皇帝たちに仕えたイエズス会宣教師たちに引き継がれていく。アメリカの雑誌『ライフ』は第二千年紀のもっとも偉大な100人の一人に選んでいる。2022年12月17日、教皇フランシスコにより英雄的聖徳が認められ、「尊者」の称号を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- Lorenzo Scupoli (1610年没)
- 細川藤孝 (1610年没)
- Duchess Sophie of Prussia (1610年没)
- 本多忠勝 (1610年没)
- アダム・エルスハイマー (1610年没)