伝記
ヴァシーリー4世は、ヴァシーリー・シュイスキーとも呼ばれ、動乱期のモスクワ・ロシアで1606年から1610年までツァーリの座にあった人物である。1552年9月22日に生まれた。かつてニジニ・ノヴゴロドを治めた家系の大貴族の出で、家系はモスクワ大公家の傍流にあたり、リューリクにさかのぼる。若いころはイヴァン4世の親衛隊オプリーチニキに属していた。1584年にイヴァン4世が死ぬと、フョードル1世の摂政団の一人であった一族がボリス・ゴドゥノフとの争いで失脚し、彼も連座して追放されたが、のちに許されてボリスに仕えた。
1591年にフョードル1世の異母弟ドミトリーが、分領のウグリチで謎の死を遂げると、ボリスに命じられて死因調査団の団長を務めた。彼は、ドミトリーがナイフを持って遊んでいるときにてんかんの発作を起こし、自分のナイフで喉を傷つけた事故死だと判断した。1598年にフョードル1世が没してリューリク朝が絶え、ボリスがツァーリに即位すると、それを認めて従った。1605年4月にボリスが死んで息子フョードル2世が即位すると、彼は、ドミトリーの母マリヤ・ナガヤとともに、偽ドミトリー1世を本物の皇子と認めて前言を翻し、フョードル2世を裏切った。ところが偽ドミトリー1世が貴族や民衆の人気を失うと、今度は偽物だと糾弾し、1606年5月、他の大貴族の支持を取りつけて偽ドミトリー1世を廃位し殺害し、直後に支持者によってツァーリに選ばれた。
シュイスキーはウラジーミル大公の直系子孫で、リューリク朝断絶後におけるリューリクの最後の男系子孫でもあり、血統だけで考えれば、最もふさわしい候補の一人であった。即位後は、本物のドミトリーが死んでいることを示すため、6月3日に皇子の遺体をウグリチからモスクワへ運ばせた。遺体は腐敗していなかったとされ、この奇跡によってドミトリーはロシア正教会に列聖された。
しかし、彼の正統性を疑う大貴族に譲歩せざるをえず、貴族会議の存在が重みを増した。国内は分裂状態で権威は極めて弱く、同年に大貴族とコサックが結んだ大規模な反乱が起き、翌1607年にイヴァン・ボロトニコフの反乱は鎮圧したものの、同年末には「生き延びた」偽ドミトリー1世を名乗る偽ドミトリー2世が現れ、南部に大きな勢力を築いた。これを撃退しようとスウェーデンに支援を求めたが、代償としてリヴォニアなどの領土の一部を手放し、スウェーデンと同盟してポーランドと戦うことまで約束させられた。これがポーランドの武力介入を招いた。
1610年4月には、甥で有能な将軍のミハイル・スコピン=シュイスキーが急死し、ヴァシーリーが暗殺したという噂が流れた。証拠はないが、暗殺の可能性は高いとされる。この死でシュイスキー家の政権は支持をほぼ失い、同年7月、ポーランド軍がモスクワへ進むなか、親ポーランド派の大貴族のクーデタで退位させられ、修道士にされた。1611年10月、ポーランドのヴワディスワフ王子を新ツァーリに推戴するための使節団に加わってワルシャワへ赴き、国王ジグムント3世に謁見したが、団長フィラレートとともに捕虜となって抑留され、翌1612年9月12日に、ワルシャワ郊外のゴスチニンで死んだ。ロシア皇帝歴代誌は、低身長で、目はほとんど見えず、迷信深く謀を好む人物だったと伝える。その退位後、1613年にミハイル・ロマノフが即位するまでの三年間、ロシアではツァーリ不在の空位期間が続いた。
同じ年に亡くなった人物
- エルモゲン (モスクワ総主教) (1612年没)
- ヘンリー・フレデリック・ステュアート (1612年没)
- ディアナ・スクルトリ (1612年)
- カリン・モンスドッテル (1612年没)
- 有馬晴信 (1612年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴワディスワフ・ゴムウカ (1982年没)
- サムエル・リンデ (1847年没)
- ユゼフ・ブラント (1915年没)
- ヴワディスワフ・ポドコヴィンスキー (1895年没)
- Miguel Najdorf (1997年没)