HISTORICAL PERSON · 2004年没

レイ・チャールズ

アメリカの歌手、作曲家、ピアニスト。盲目のハンディを負いながら、ブルースやジャズ、ゴスペルを融合してソウルミュージックを生み出した第一人者で、「天才」と呼ばれた。

生涯
2004年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ビバリーヒルズ)
出生地
アメリカ合衆国(オールバニ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

レイ・チャールズ・ロビンソンは、1930年9月23日、ジョージア州オールバニに生まれたアメリカの歌手、作曲家、ピアニストである。父ベイリー・ロビンソンは肉体労働者、母アレサは洗濯作業員で、15歳のときにベイリーの子を身ごもって地元のスキャンダルとなり、親族のいるオールバニへ移ってレイを産んだ。ベイリーは家族を見捨てて去り、母は養母メリー・ジェーンとともに息子を育てた。チャールズは母に深く傾倒し、体が弱く不運続きだったのに、忍耐強く自立し誇り高かった母が、人生の指針になったと語っている。幼いころから機械に興味を示し、3歳のころには近所のカフェでピットマンが古いアップライト・ピアノでブギウギを弾くのを聴いて音楽に目覚め、ピアノの弾き方を教わった。6歳のとき、4歳の弟ジョージが母の洗濯桶で誤って溺れて亡くなった。視力は4、5歳のころから悪化し始め、ジョージの死の約9か月後、7歳でおそらく緑内障のために失明した。

1937年から1945年まで、フロリダ州セントオーガスチンの盲聾学校に通った。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどのクラシックピアノを学び、点字楽譜の使い方も教わった。1945年、14歳のときに母を亡くし、のちに弟と母の死を「人生最大の悲劇」と語った。葬式の後は学校に戻らず、母の友人を頼ってジャクソンビルに移り、劇場で複数のバンドのピアノを弾いて、一晩に4ドルを稼いだ。16歳でオーランドへ移ったが、極貧で数日食べられないこともあった。1947年にタンパへ移り、2つの仕事を掛け持ちした。キャリアの初期には、ナット・キング・コールを手本としていた。自分のバンドを持ちたいと願い、1948年3月、友人とともに北西部のシアトルへ向かった。そこで、当時15歳のクインシー・ジョーンズと出会い、生涯の友となった。ピアノ、ギター、ベースのトリオで夜中の仕事に就き、1949年4月に録音した曲が最初の全国ヒットとなって、R&Bチャートで第2位に上った。このころから薬物の悪癖も始まった。1950年にはロサンゼルスに移り、数年間、ブルースの歌手ロウエル・ファルソンのツアーに音楽監督として同行した。初めはレイ・ロビンソンの名で活動したが、同名のボクサーがいるため、ミドルネームを用いて改名した。1952年6月、アトランティック・レコードと2,500ドルで契約した。

1954年末に録音した「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」は、ゴスペルとジャズとブルースの要素を融合した最も著名なヒット曲のひとつで、R&Bチャートの第2位となった。1958年には初のライヴ盤を録音し、女性コーラスのクッキーズを雇ってレイレッツと改名させた。1960年のヒット曲「我が心のジョージア」は、ビルボード誌のシングルチャートの首位に立った。1962年のカントリーとの融合を試みたアルバムは、同誌のアルバムチャートで1位を得た最初の作品となった。ABCレコードでは、主要レコード会社から芸術面での決定権を与えられた最初の黒人音楽家のひとりであった。ブルース、ジャズ、リズム・アンド・ブルース、ゴスペルを融合したソウルミュージックの第一人者とされる。フランク・シナトラは彼を「ショービジネス界で唯一の真の天才」と呼んだ。ケネディ・センター名誉賞や国民芸術勲章を受け、1986年にはロックの殿堂の最初の殿堂入りの一人となった。グラミー賞は18回受賞した。2004年6月10日に死去した。

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