HISTORICAL PERSON · 326年没

クリスプス

コンスタンティヌス1世の長子で副帝。ガリア統治やヘレスポントスの海戦でリキニウス艦隊を破るなど軍事的才能を発揮したが、父の猜疑を招き処刑された。

生涯
326年没
死亡地
クロアチア共和国(イストラ郡 / プーラ)
出生地
クロアチア共和国(プーラ)
出典
世界地図
クロアチア共和国(イストラ郡)

伝記

クリスプスは、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の長子で、父に任じられた副帝である。正式な名はガイウス・フラウィウス・ユリウス・クリスプスという。生年は不明で、早くても295年ごろとされ、299年から305年の間とも、303年ともいわれる。317年に副帝となったとき17歳だったとされることから、299年から300年ごろの生まれとも取れる。そうなると、処刑されたときの年齢は22歳から31歳の間と見られる。母はコンスタンティヌスの最初の妻ミネルウィナである。ミネルウィナは妻でも側室でもなかったとされ、ほとんど何もわかっていない。コンスタンティヌスは当時、東方の皇帝ディオクレティアヌスの宮廷があるニコメディアに、忠誠を保証する人質として置かれていたという。

クリスプスは、当代随一のキリスト教の教師ラクタンティウスの教えを受け、教養豊かな青年に育った。同時代の記録は、父が長子を愛し、信頼し、守ったことで一致している。317年3月1日、コンスタンティヌスと東方の皇帝リキニウスは、クリスプス、その異母弟コンスタンティヌス2世、リキニウスの子リキニウス2世の三人を副帝に立てた。異母弟は生後1か月ほどだったとされ、実際に任務を負った副帝はクリスプスだけだった。父は彼にガリアのローマ軍の指揮を任せ、クリスプスはアウグスタ・トレウェロルム(現在のトリーア)に住んだ。そこで蛮族と戦い、318年、320年、323年にはフランク人やアラマンニ人に対する遠征で勝利して、軍事的才能を示したという。322年1月にはヘレナという女性と結婚し、同年10月に一人息子フラウィウスが生まれた。テオドシウス法典には、コンスタンティヌスがこの出来事を祝う様子が記録されている。

父とリキニウスが戦うと、クリスプスは父のもとで戦った。324年のヘレスポントスの海戦では艦隊を率い、200隻の船で、少なくとも倍の規模とされるリキニウスの艦隊を破った。その後は父の軍団の一部の指揮を任され、クリスプスはクリュソポリスの戦いでもリキニウスに勝った。この二つの勝利は、コンスタンティヌスが帝国の唯一の皇帝となるうえで大きな意味をもった。父は貨幣や彫像、モザイクなどに息子の姿を表して称え、伝記作者のエウセビオスはクリスプスに宛てて、神に愛された皇帝で万事において父に比べられる、と書き送ったという。この時点では、ほかの異母弟たちが若く経験も乏しいため、クリスプスが最有力の後継者と見られていた。

しかし、これらの功績によって、老境に入っていたコンスタンティヌスへの人々の人気はクリスプスに吸い寄せられた。それが父の嫉妬と猜疑を呼び、腹違いの弟コンスタンティヌス2世が副帝としてガリアの統治に送り込まれると、クリスプスは宮廷内に軟禁状態に置かれたとされる。326年、コンスタンティヌスの治世20年を祝う式典のさなか、クリスプスは逮捕され、イストリアのポーラに送られて処刑された。継母ファウスタの誘惑をクリスプスが拒んだため、彼女が父の猜疑をあおって殺させたともいわれる。伝記を書いたエウセビオスは、この行いに弁護の余地がなかったためか、その中でこの件に一切触れていない。同じころ、リキニウスの一人息子で10歳か11歳のリキニアヌスも殺害された。二人の殺害はコンスタンティヌス朝の内部抗争の一部とする見方が有力である。クリスプスの息子フラウィウスのその後の運命は知られていない。

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