伝記
コンスタンティウス・ガッルス(フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティウス・ガッルス)は、325年か326年に生まれ354年に没した、コンスタンティヌス朝のローマ副帝である。在位は351年から354年で、352年から354年には3年続けて執政官も務めた。ガルスとも呼ばれる。コンスタンティヌス大帝の異母弟ユリウス・コンスタンティウスと最初の妻ガッラの三男で、姉は皇帝コンスタンティウス2世の最初の妻となった。後に皇帝となるユリアヌスは、父の2番目の妻バシリナの子で、異母弟にあたる。
ガッルスはエトルリアのマッサ・ウェテルネンシスで、父が追放から戻った後に生まれた。337年に父と長兄がコンスタンティノープルでの兵士の暴動で殺された。この事件は、コンスタンティウス2世の意向によるものだった可能性があるとされる。ガッルスは少年期を、異母弟ユリアヌスとともにカッパドキアの皇帝領マケルムで過ごしたと一般に考えられている。
351年、コンスタンティウス2世は簒奪者マグネンティウスとの交渉をやめ、武力で討つことにした。西方を平定する遠征の間、東方の属州を任せる者が必要だったため、シルミウムに従兄弟のガッルスを呼び、3月15日に副帝に任じた。さらに妹のコンスタンティナを妻として与えたが、これは絆を強めると同時に、若いガッルスを抑える狙いがあったという。当時25歳で、アンミアヌス・マルケリヌスは、運動に秀で、顔立ちが特に整い、金髪の青年だったと描いている。ニコメディアで異母弟ユリアヌスを訪ねた後、5月7日にアンティオキアに到着して住まいを定めた。軍や民衆の間では一定の人望があったが、古代の歴史家たちからはコンスタンティウス2世と同じくあまり好意的に扱われず、ゾシモスが例外とされる。アンミアヌスの記述はことに暗く、ガッルスの敵対者の影響を受けているとみられている。
在任中は二つの問題に直面した。一つはパレスティナのディオカエサレアでのユダヤ人の反乱(351年から352年)で、ガッルスの昇進の前に始まった可能性が高い。将軍ウルシキヌスが残酷に鎮圧し、反乱者はすべて処刑され、ディオカエサレアは土台まで破壊された。もう一つは353年にキリキアのセレウキアを襲ったイサウリアの山賊で、ガッルスは東方総督ネブリディウスを派遣した。また、ある老女の通報によって暗殺の企てから救われた。この陰謀はマグネンティウスがコンスタンティウスの注意をそらすために企てたものだと、ゾナラスらは述べている。
しかし最大の問題の種は、孤独な幼少期に由来するかもしれない、ガッルス自身の気難しく乱暴な性格だった。唐突な罷免と反対者への暴力的な弾圧によって高官たちの反感を買い、彼らを深く信頼していたコンスタンティウスは、ガッルスが自分に反旗を翻すのではないかと恐れるようになった。穀物不足の際には、投機と価格高騰を抑えるため、アンティオキアの評議会の意向に反して価格統制を強行したが、効果は逆になった。安値に乗じた投機家が穀物を買い占め、闇市場で高く売ったからである。民衆の不満が募る中、ガッルスは不人気な総督テオフィロスに飢饉の責任を負わせ、テオフィロスは暴徒に殺された。夜に変装して市中を歩き、自分への評判を探ったともいい、アンミアヌスによれば、意に沿わない答えをした者を殺した。疑念を抱いたコンスタンティウスが長官ドミティアヌスをアンティオキアに送って釈明を求めると、ガッルスは彼を逮捕させ、弁護に立った財務官モンティウスとともに兵士に殺させた。ガッルスは354年12月19日、ポラで没した。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティアーナ (354年)
同じ地域に関係する人物
- Mirko Kovac (2013年没)
- クリスプス (326年没)
- メート・パルロフ (2008年没)