伝記
コチェリル・ラーマン・ナーラーヤナンは、インド南部のケララ地方の貧しい家に生まれ、第10代インド共和国大統領(在任1997年6月25日から2002年6月25日)となった政治家である。生年は1921年2月4日とも、1920年10月27日ともいわれる。生まれたのは、当時のトラヴァンコール藩王国にあたる現在のケララ州コッタヤム県のウザヴールの村である。伝統的なアーユルヴェーダの医師だった父と母の7人の子の4番目で、一家は最下層のカーストに属し、貧しかったが、父は医術で尊敬を集めていた。
少年は、片道およそ15キロの道を水田の中を歩いて学校に通った。授業料が払えないことも多く、納められないために教室に入れてもらえず、外に立って授業に耳を傾けたこともあったという。教科書を買う金もなく、喘息で家にいた兄が、ほかの生徒から本を借りて書き写し、弟に渡した。王家からの奨学金を受けて中等教育を終え、トラヴァンコール大学で英文学を学んで、大学の首席で卒業した。この学位を一級の成績で得た最初の最下層出身者となった。家計が苦しいなか、デリーへ出て新聞記者として働き、1945年にはボンベイでマハトマ・ガンディーに自ら申し込んでインタビューをしている。
1944年にタタ財閥のJ・R・D・タタから奨学金を贈られ、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学した。ここで政治学をハロルド・ラスキに学び、カール・ポパーやフリードリヒ・ハイエクらの講義にも出た。ロンドンでは、のちのカナダ首相ピエール・トルドーとも親しくなった。1948年にインドに戻ると、ラスキが書いた紹介状をネルー首相に渡して、外務省に入った。日本、イギリス、タイ、トルコなどで外交官として働き、中国大使やアメリカ大使などを歴任して、ネルーに「国で最良の外交官」と評されたという。
インディラ・ガンディーの求めで政界に入り、1984年にインド国民会議派から下院議員選挙に立候補して当選した。3回続けて当選し、ラジーヴ・ガンディー内閣では国務相を務めた。1992年8月に副大統領となり、1997年に最下層出身者として初めて大統領に就任した。大統領としては、憲法の枠内で働く「働く大統領」を自称し、首相の任命や州政府の解散などで、慣例とは異なる独自の判断を示した。インド独立50周年の記念行事を主宰し、1998年の総選挙では在任中の大統領として初めて投票した。1999年にはカシミール地方でパキスタンとのカルギル紛争が起こった。2000年には中国を訪問し、関係の改善に尽くした。
任期の最終年の2002年には、グジャラート州でイスラーム教徒数千人が殺される事件が起きた。彼は宗教的少数派を守るためにインド軍を動かすことを望んだが、議会の多数派だったインド人民党に阻まれた。この党は、彼が大統領を2期務めることにも反対した。2005年10月29日から急性肺炎で入院し、11月9日にニューデリーの陸軍病院で亡くなった。ビルマ出身の妻との間に2人の娘がいた。
同じ年に亡くなった人物
- サービト・エル・バタル (2005年没)
- ニャシンベ・エヤデマ (2005年没)
- アンデルル・ヘックマイヤー (2005年没)
- Carl Amery (2005年没)
- Jerzy Pawlowski (2005年没)
同じ地域に関係する人物
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- グル・モハメッド (1997年没)
- フマーユーン (1556年没)
- ラジェンドラ・パチャウリ (2020年没)
- ビーシュム・サーヘニー (2003年没)