伝記
ニャシンベ・エヤデマは、トーゴの軍人であり、第3代大統領を務めた政治家である。当初の名はエティエン・エヤデマ・ニャシンベといい、のちにニャシンベ・エヤデマと改めた。公式には1935年12月26日、北部カラ州コザ県のピア村に、カビエ族の農民の家に生まれたとされる。しかしこの生年月日には異論があり、研究者のコミ・トゥラボルは、公式の出生日を「空想の産物」と述べ、1930年ごろに生まれたと言うほうが正確だろうと指摘している。母は、のちにママン・ンダニダと呼ばれた。
小学校を終えた1953年にフランス軍に入り、1961年までの外人部隊の期間に、インドシナ戦争とアルジェリア戦争に従軍した。10年近いフランス軍での勤務を経て、1962年にトーゴに戻った。1963年1月7日、初代大統領シルバヌス・オリンピオを打倒するクーデターに加わり、中心的な役割を果たした。この襲撃でオリンピオ大統領は殺害され、エヤデマ自身が手を下したとしばしば言われる。クーデターの直後、エヤデマが雑誌などに、自分が撃ったと語ったという報道があるが、後年には責任を否定した。このときは、亡命中だったニコラ・グルニツキーを帰国させ、新しい大統領に就かせた。1965年に軍参謀長に就任した。
しかしグルニツキーは、政権の3年のうちに国民の支持を失った。1966年には、南部出身者が中心の「統一トーゴ党」による大規模なデモが起こった。指導者のノエ・クツクルイは、オリンピオ殺害に関する訴追を求めており、これを恐れたエヤデマは、軍を動員してデモを弾圧した。1967年1月7日、二度目のクーデターでグルニツキーを追放した。今回は流血がなく、グルニツキーはパリへ亡命した。暫定政権を経て、4月14日に自ら大統領に就任し、国防相も兼ねた。この二つの職を、ほぼ38年間にわたって保つことになる。
憲法を停止して議会を解散させ、南北の出身者のバランスに配慮した内閣を組んで政権を安定させた。就任から3年後には「トーゴ人民連合」を唯一の合法政党として設立し、一党体制を敷いた。大規模な抑圧は見せない一方で、陰謀を使って政敵を排除し、警察国家的な手法で内政を安定させたと評される。1972年にはナイジェリアのヤクブ・ゴウォンとの会談で西アフリカ諸国経済共同体の設立を推し進め、1977年に初代議長となった。1979年12月の大統領選挙では99.97%の支持を得て、議会を発足させ、形式の上では民主体制に戻った。在任中には暗殺未遂も重ね、1974年には北部で飛行機事故に遭いながら生き残った。別の暗殺未遂で護衛に撃たれた際は、外科医が取り出した弾丸をお守りとして持ち歩いたという。
1991年に民主化運動が高まると譲歩を迫られ、国民会議の開催を認め、首相には別の人物が選ばれて大統領は儀礼的な存在とされた。しかし軍を握るエヤデマは、会議の内部対立の隙を突いて勢力を回復し、1993年の大統領選挙で再選された。野党はこの選挙をボイコットし、得票率は96.42%だった。その後は国際人権団体から、超法規的な処刑や恣意的な逮捕、拷問などが続いたと批判された。2002年には憲法の三選禁止条項を撤廃させ、政敵の大統領立候補資格を奪い、2003年の選挙でも当選した。2005年2月5日、療養のためフランスに向かう途中、飛行機の中で亡くなった。アフリカで最長の在任の国家元首で、後を継いだのは息子のフォール・ニャシンベである。トーゴ史上初の権力の世襲だった。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンス・ムーア (2005年没)
- Adolf Muller (2005年没)
- ジョセフ・ロートブラット (2005年没)
- ペール・ボルテン (2005年没)
- ロバート・ワイズ (2005年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヘディ・ヌイラ (1993年没)
- マルクス・アティリウス・レグルス (紀元前250年没)
- Olivia de Palermo (463年没)
- Tewhida Belshikh (2010年没)