伝記
ラフィーク・バハーッディーン・アル=ハリーリーは、1944年11月1日、レバノンの港町サイダ(シドン)で、スンナ派ムスリムのつつましい家に生まれた。弟のシャフィークと妹のバヒーヤがいる。サイダで小学校から高校まで学び、ベイルート・アラブ大学で経営学を修めた。1965年にサウジアラビアへ渡り、短期間教師を務めたのち建設業界に移った。1969年(1971年とも)に小さな下請け会社を設立したが、まもなく立ち行かなくなった。その後、フランスの建設会社オジェと組んでサウジアラビアのターイフにホテルを建て、工期を守ったことでハーリド国王から賞賛を受けた。やがてオジェを引き継いで1978年にサウジ・オジェ社を設立し、サウジ王室の主要な建設事業を担う会社に成長させた。数年のうちに億万長者となり、1980年代には、フォーブス誌の富豪ランキングで100位以内に入る世界有数の資産家だった。1978年にはサウジアラビアの国籍も取得した。
資産を築くと、慈善事業にも乗り出した。1979年に、のちにハリーリー基金と改称される団体を作り、イギリス、フランス、アメリカなどで学ぶレバノン出身の学生に奨学金を出した。1982年にはオジェ・レバノン社を設立し、内戦で荒廃したベイルートやサイダの復興、病院の建設、自身の名を冠した学校の設立などを進めた。内戦中には民兵に多額の資金を出したと言われ、元側近は、ベイルートの中心街の破壊と再建で巨万の富を得たと非難している。サウジ王室の特使としてレバノン内戦の収拾にも関わり、1989年のターイフ合意に向けた地ならしをした。レバノンの内戦が終わった1990年に帰国して再び居を定め、内戦後の国家の再建に加わった。
1992年にエリアス・ハラーウィ大統領のもとで内戦後の初代の首相となり、財務相も兼ねた。1996年の選挙では、ベイルート選挙区から立候補して最多得票で当選し、国会議員になった。1992年から1998年、2000年から2004年まで首相を務め、宗派対立を乗り越えてレバノン人の統一を訴えたことや、海外からの復興資金を集めた手腕が評価される一方、復興事業に自分の建設会社が当たって大きな利益を上げたことは批判の的になった。反対派は彼をサウジアラビアの回し者だと非難したが、サウード家と密接な関係を築き、サウジ国籍を持っていたことは確かである。2000年には、18年に及んだイスラエルによる南レバノンの占領が終わった。2004年、シリア軍の撤退をめぐり、親シリアのラフード大統領の任期を3年延長する憲法改正案がシリアの圧力で議会を通ると、政局の混乱のなかで首相を辞任した。
2005年2月14日、ベイルート市内を走行中の車列が、数百キロの爆薬による攻撃を受け、10人以上の同行者とともに暗殺された。ハリーリーはシリア軍の即時撤退を求めて親シリア派と対立しており、暗殺へのシリアの関与を疑う見方もある。事件はシリアの占領支配に対するレバノン国民の不満を爆発させ、杉の革命と呼ばれる抗議運動に発展して、同年中にシリア軍は完全に撤退した。2020年8月、国連が設けたレバノン特別法廷は、ヒズボラの構成員1人に欠席のまま有罪を言い渡し、ほかの3人は証拠不十分で無罪とした。次男のサード・ハリーリーも、のちに首相を務めた。
同じ年に亡くなった人物
- Wladimiro Calarese (2005年没)
- ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ (2005年没)
- アルマン (美術家) (2005年没)
- クレメンテ・ドミンゲス (2005年没)
- シャーンドル・ジェルジ (2005年没)
同じ地域に関係する人物
- ラシード・アッ=スルフ (2014年没)
- チャールズ・マリク (1987年没)
- エリー・ホベイカ (2002年没)
- Maximos V Hakim (2001年没)
- ビシャーラ・アル=フーリー (1964年没)