伝記
ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードは、1923年ごろに生まれ、2005年8月1日に没した、サウジアラビアの第5代国王である。生まれた年は1920年、1921年、1923年と諸説あり、正確な生年月日は分かっていない。ワッハーブ派のイマームとしてはファハド1世にあたり、長男はファイサル・ビン・ファハドである。
初代国王アブドゥルアズィーズが、数多くの妻の中で最も寵愛したとされるハッサの息子で、城壁に囲まれた町リヤドに生まれた。ハッサの出身はスデイリ家という有力部族で、ファハドを含む7人の男兄弟は「スデイリ・セブン」と呼ばれ、サウード家の最有力派閥として政府の重要な地位を占めた。ファハドは母のすすめで、王族の教育のために設けられたリヤドの王子学校に4年間通い、さらにマッカの宗教知識研究所でも学んだ。1945年には、当時外相だったファイサル王子に随行して、国際連合憲章の調印のためサンフランシスコを訪れた。1953年にはエリザベス女王の戴冠式に王家を代表して出席し、同年12月24日に、サウジアラビアで初めての教育大臣に任命された。1962年に内務大臣となった。
1964年に即位したファイサル国王の右腕として、1967年に新設された第二副首相に就いた。1967年1月には、内務省の執務室で爆発があり、約40人の職員が負傷したが、彼自身はその場におらず、無事だった。1973年12月には、第四次中東戦争をきっかけとする第一次石油危機のなか、日本から中東特使として派遣された三木武夫を迎え、ファイサル国王とともに会談して、日本を友好国扱いにして対日石油供給の制限を解除した。1974年には、アメリカ合衆国のニクソン大統領やキッシンジャー国務長官と会談して、原油をドル建てで安定的に供給する代わりに、アメリカがサウジアラビアに安全保障を提供するという協定を、ファイサル国王とともに交わしたとされる。1975年にファイサル国王が暗殺され、異母兄のハーリドが即位すると、王太子で第一副首相となり、病弱なハーリド国王を補佐した。この時期は、事実上の指導者と見られた。
1982年6月、ハーリドの死去にともなって国王に即位した。1980年代は、ソビエト連邦に対抗して、アフガニスタンのムジャーヒディーンやニカラグアのコントラを支援するなど、基本的に親米路線で西側寄りだった。1987年に、イラン・イラク戦争のさなか、サウジアラビアから巨額の財政支援を受けていたイラクの攻撃でアメリカ海軍の艦が被害を受けた際には、米軍への基地提供を拒み、中国から弾道ミサイルを導入して、アメリカの懸念を招いたこともあった。1986年11月24日には、陛下という称号に代えて、二聖モスクの守護者の称号を名乗ると発表した。世俗的な王権性を否定し、国是であるワッハーブ派に配慮したためである。1991年の湾岸戦争では、多国籍軍に加わったエジプトのムバーラクやシリアのアサドと親密な関係を築いた。1992年に、基本法を導入したことでも知られる。
1995年に脳卒中で倒れ、以後は健康不安が続き、十分に職務を果たせなくなった。弟の王太子アブドゥッラーが事実上の摂政を務めた。2005年8月1日に、リヤド市内の病院で亡くなり、王位は弟のアブドゥッラーが継いだ。23年にわたる治世は、サウジアラビアの国王の中で最長とされる。
同じ年に亡くなった人物
- June Lang (2005年没)
- Michel Thomas (2005年没)
- ズジスワフ・ベクシンスキー (2005年没)
- レオ・スターンバック (2005年没)
- ドナルド・ワトソン (2005年没)
同じ地域に関係する人物
- シュラフビール・イブン=ハサナ (639年没)
- ムサイリマ (632年没)
- ファイサル (サウジアラビア王) (1975年没)
- アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ (2015年没)
- Ka'b bin Zuhayr (647年没)