HISTORICAL PERSON · 2005年没

エドワード・ヒース

イギリスの政治家。保守党党首を務め、1970年から1974年まで首相を務めた。下院議員を半世紀にわたり務め、指揮者としても活動した。

生涯
2005年没
死亡地
イギリス連邦(ウィルトシャー / ソールズベリー)
出生地
イギリス連邦(ブロードステアーズ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィルトシャー)

伝記

エドワード・リチャード・ジョージ・ヒースは、1916年7月9日、ケント州ブロードステアーズで、大工の父と客室係の母の間に生まれたイギリスの政治家である。オックスフォード大学ベリオール・カレッジで学び、学生の政治活動の中心となって、多くの政治家を輩出した名門の弁論部、オックスフォード・ユニオンの会長を務めた。卒業後はヒッチハイクで北欧・東欧を旅したが、その直後に第二次世界大戦が始まった。志願して陸軍に入り、王立砲兵隊の将校として中佐まで昇進した。戦後は人事院、民間航空省、『チャーチ・タイムズ』誌の編集長、銀行などの職を経験した。1946年1月24日には大英帝国勲章メンバーを授与された。

1950年の総選挙でベクスリーから保守党候補として出馬し、当選した。以後は主に党務に専念し、チャーチルら党首の覚えもよかった。スエズ危機への対応をめぐって割れた党内をまとめたことで頭角を現し、1955年にイーデンから院内幹事長に起用された。ハロルド・マクミラン政権では労働相や王璽尚書を務めた。欧州経済共同体への加盟交渉の責任者を務め、フランスのド・ゴールの反対で加盟は失敗したものの、交渉力が閣僚や野党労働党からも高く評価され、「ミスター・ヨーロッパ」と呼ばれた。アレック・ダグラス=ヒューム内閣では商務院総裁となった。1964年の総選挙で保守党が敗れ、党首が辞任すると、保守党史上初の下院議員による党首選挙が行われ、ヒースは出馬して元蔵相らを破り、1965年に党首となった。労働党のハロルド・ウィルソンに対抗するうえで、非上流階級の出身であることもプラスに働いた。1966年の総選挙では労働党に大敗したが、党首にとどまった。

1970年の総選挙は保守党に不利と見られ、ヒース自身も選挙区で落選の可能性をささやかれたが、予想に反して保守党が勝利し、首相に就任した。就任後は、文化大革命のさなかの中国を訪れて毛沢東と会談し、暴動に襲われた植民地の香港の保全に努めた。1971年には通貨の十進法化を、1972年には地方自治体の大幅な改革を行い、長年の懸案だった欧州共同体への加盟を1973年に実現した。一方、北アイルランドの問題では事態を改善できず、1971年の裁判なしの一斉拘留や、1972年1月30日にロンドンデリーで起きた「血の日曜日事件」などで暴力が激しくなった。1973年にはサニングデール合意が崩れた。経済の規制緩和や労使関係の改革、付加価値税の導入にも取り組んだが、1974年初めの炭鉱労働者のストライキが政権に打撃を与えた。エネルギーを節約するため週3日勤務制を導入し、1974年2月に総選挙に打って出たが敗北し、退陣した。

1950年の初当選から2001年に引退するまで、50年以上にわたり下院議員を務め、1992年4月23日にガーター勲章を受けた。1998年には日本の勲一等旭日大綬章も受けた。1972年9月には来日し、昭和天皇と会談した。終生独身であった。若いころオルガン奏者の教育を受けており、首相在任中にロンドン交響楽団を指揮するなど、指揮者としても活動した。1985年にはロンドン交響楽団の理事長兼名誉指揮者に就き、1986年にはサントリーホールの開館記念演奏会で指揮した。2005年7月17日、89歳で死去し、遺灰はソールズベリー大聖堂に葬られた。

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