HISTORICAL PERSON · 2005年没

リチャード・プライヤー

アメリカのコメディアン・俳優。強い言葉を用いたスタンダップコメディで、鋭い人間観察をもとに黒人差別を逆手に取る過激な芸風を築いた。

生涯
2005年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / エンシノ)
出生地
アメリカ合衆国(ピオリア)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

リチャード・プライヤーは、1940年12月1日にイリノイ州ピオリアで生まれ、2005年12月10日に没したアメリカ合衆国のコメディアン、俳優である。本名はリチャード・フランクリン・レノックス・トーマス・プライヤー。

祖母マリー・カーターが営む売春宿で育った。母は売春婦で、父は元ボクサーでペテン師だったという。母は彼が10歳のときに家を出たため、主に気性の激しい祖母に育てられた。7歳でナイトクラブにドラマーとして出演し、14歳で学校を抜け出してコメディクラブの清掃員になった。高校卒業後はアメリカ陸軍に入ったが、1958年から1960年までの任期のうち、ほとんどを軍の刑務所で過ごした。西ドイツ駐留中に、人種問題を描いた映画の場面を面白がった白人の兵士を、仲間の黒人兵とともに殴り、刺した事件のためだと、1999年の雑誌の記事は伝えている。除隊したのは2年後とされる。

1963年にニューヨークへ移り、ボブ・ディランやウディ・アレンらとともにクラブで演じるようになった。最初期のある夜には、歌手のニーナ・シモンの前座を務めた。ビル・コスビーに触発されて、当初は無難な芸風のコメディアンだったが、やがてテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』などに出るようになり、ラスヴェガスでも成功した。1967年9月、ラスヴェガスのホテルの舞台で、満員の客席を見て「ここで何をしているんだ」と叫び、舞台を降りたことがある。これを自伝では「啓示」と呼んでいる。以後は、芸の中に、アメリカ社会の黒人差別を逆手に取るような、過激な内容を入れていった。強い卑語や人種的な蔑称を多用したが、その内容は鋭い人間観察を反映していた。1979年にアフリカを旅行し、それ以降は黒人への蔑称を二度と使わないと宣言した。1969年にはカリフォルニア州バークレーに移り、対抗文化に浸った。

1970年代には、テレビ番組の脚本を書いたほか、1973年にエミー賞を受賞した。映画では『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』(1972年)、『ワッツタックス』(1973年)をはじめ、多くの作品に出演した。ジーン・ワイルダーとのコンビで『大陸横断超特急』(1976年)、『スター・クレイジー』(1980年)、『見ざる聞かざる目撃者』(1989年)などのヒット作を生んだ。グラミー賞を5回受賞し(1974年、1975年、1976年、1981年、1982年)、1998年には、アメリカのユーモアに贈られる最初のケネディ・センター・マーク・トウェイン賞を受けた。エディ・マーフィやクリス・ロックなど多くのスタンドアップコメディアンに影響を与え、ジェリー・サインフェルドは彼を「スタンドアップコメディにおけるピカソのような存在」と呼んでいる。

長年、アルコールや薬物の依存に苦しんだ。1980年6月9日には、映画『おんぼろバスと8人の子供たち』の制作中に、コカインの影響下で自分の体にラム酒をかけて火をつけ、全身の半分以上に大やけどを負って、一時活動を休止した。1985年ごろからは多発性硬化症で、20年にわたって闘病し、2005年12月10日、心臓疾患のためロサンゼルス郊外で亡くなった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物