伝記
ジョージ・ベストは、1946年5月22日に北アイルランドのベルファストで、造船所の旋盤工の父ディッキーと、ホッケーの名選手だった母アンの長男として生まれたサッカー選手である。マンチェスター・ユナイテッドでボビー・チャールトン、デニス・ローとともに「聖なる三位一体」と呼ばれ、アイドルのような容姿と活躍から「5人目のビートルズ」とも呼ばれた。プロテスタント系の上級学校に進んだが、通学の途中でカトリック居住区を通るためにいじめを受け、中退した。転校先の中等学校で再びサッカーに打ち込み、地元の少年団にも加わった。小柄で痩せていたが、マンチェスター・ユナイテッドのスカウト、ボブ・ビショップは才能を確信し、監督マット・バスビーに「天才を発見した」と電報を打ったという。
15歳でトライアルに合格し、規定でプロ契約ができなかった17歳になるまで、週給4ポンドで靴磨きや掃除の雑務をこなしながら練習した。1963年5月22日の17歳の誕生日にプロ契約を結び、同年9月14日のウェスト・ブロムウィッチ戦で負傷した選手の代役として先発し、トップチームでデビューした。12月28日のバーンリー戦で左足の初ゴールを決めてレギュラーに定着し、1964年4月には17歳で北アイルランド代表に最年少で初出場した。1964-65シーズンは10得点を挙げ、チームの8シーズンぶりのリーグ優勝に貢献した。1965-66年の欧州チャンピオンズカップ準々決勝では、強豪ベンフィカとの第2戦で2得点を決め、世界に名を知らしめた。
1967-68年は、準決勝でレアル・マドリードを破るのに貢献し、決勝では再びベンフィカと当たり、延長前半に得点して初優勝を果たした。このシーズンのリーグ戦で28得点を挙げて得点王になり、バロンドールを史上最年少で受賞した。ところが1969年ごろから飲酒が増え、二日酔いで練習を無断で休むようになった。審判へのクレームで出場停止となり、1971年には英国サッカー協会から過去最高額の罰金を科された。1972年5月に25歳で引退を宣言したがすぐ撤回し、半年遠ざかったのち復帰したが、1974年1月1日の試合がマンチェスター・ユナイテッドでの最後となった。チームは同シーズンに2部へ降格した。その後は南アフリカやアメリカなどのクラブを渡り歩き、アメリカではペレと対戦もした。北アイルランド代表では37試合に出場して9得点を挙げたが、同国は強いチームではなく、ワールドカップには出られなかった。
引退後の1978年にアンジェラ・ジョーンズと結婚し、翌々年に息子が生まれたが、結婚生活は数年で終わった。同年、アルコール依存症の母が亡くなって精神的に追い込まれ、酒やギャンブルにのめり込み、1982年には破産した。1995年に客室乗務員と再婚した。長年の飲酒で肝臓を傷め、2002年7月に肝臓移植手術を受けたが、再び酒に手を出し、2004年に離婚した。
2005年11月25日に没した。移植後の免疫抑制剤による腎臓の感染症で、入院中に病状が回復しなかった。病院前やオールド・トラッフォードに多くの人が集まり、12月2日の葬儀は北アイルランド議会議事堂のあるストーモントで営まれ、2万人以上が見守った。葬儀はBBCで中継され、イギリスで450万人が視聴したと記録されている。2006年にはベルファストの空港が彼の名を冠して改称され、2008年には、オールド・トラッフォードの外に、チャールトン、ローとともにブロンズ像が完成した。ペレは彼を「世界最高の選手」と評した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ケナン (2005年没)
- エディ・ゲレロ (2005年没)
- Terri Schiavo (2005年没)
- ヘンリー・タウベ (2005年没)
- ハリソン・ヤング (2005年没)
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