HISTORICAL PERSON · 2007年没

ミケランジェロ・アントニオーニ

イタリアの映画監督。ヴェネツィア、カンヌ、ベルリンの三大映画祭すべてで最高賞を受け、1950年に初の長編劇映画『愛と殺意』を発表した。

生涯
2007年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(フェラーラ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ミケランジェロ・アントニオーニは、1912年9月29日にフェラーラで生まれ、2007年7月30日にローマで94歳で亡くなったイタリアの映画監督である。ヴェネツィア、カンヌ、ベルリンの世界三大映画祭の最高賞をすべて受けた監督として知られる。

ボローニャ大学を卒業したあと、地元の新聞に映画批評を寄稿した。1940年にローマに移り、チネチッタで映画製作を学び、のちに自作に関わる数人の映画技術者と出会った。1942年には、ロベルト・ロッセリーニの『ギリシャからの帰還』の脚本を書き、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』で助監督を務めた。1947年に短編ドキュメンタリーで監督としてデビューし、『愛すべき嘘』(1949年)など数本の短編ドキュメンタリーを撮った。1950年に初の長編劇映画『愛と殺意』を発表した。1955年の作品で、長回しによる撮影の様式を確立し、同年のヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けた。1957年には、妻から突然別れを告げられたことをきっかけに、故郷のフェラーラを舞台にした『さすらい』を撮り、ロカルノ国際映画祭で金豹賞を受賞した。

1960年の『情事』は、既存の映画の文法とまったく異なる作品で、カンヌ国際映画祭で上映されたときにはブーイングが鳴りやまなかったが、審査員賞を受賞した。この作品に出演したモニカ・ヴィッティは、以後アントニオーニの欠かせないミューズとなった。1961年には、ヴィッティのほか、マルチェロ・マストロヤンニやジャンヌ・モローを起用した『夜』で、ベルリン国際映画祭の金熊賞を受けた。1962年の『太陽はひとりぼっち』は、ヴィッティとアラン・ドロンを配し、カンヌで審査員特別賞を受賞した。この3作は「愛の不毛三部作」として知られる。1964年には初のカラー作品『赤い砂漠』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞した。1966年には、スウィンギング・ロンドンと呼ばれた当時のポップカルチャーを織り交ぜた不条理劇『欲望』を発表し、1967年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに続いて、世界三大映画祭すべての最高賞を獲得した史上2人目の監督となった。

1970年にはアメリカを舞台に学生運動やヒッピー文化を描いた『砂丘』を発表し、ピンク・フロイドの音楽とともにラストの爆破の場面が高く評価された。1972年には毛沢東の妻、江青の依頼で文化大革命期の中国を撮ったドキュメンタリー『中国』を製作したが、中国政府にとって都合の悪い描写があったため反発を受け、中国で公開されたのは30年後だった。1975年にはジャック・ニコルソンとマリア・シュナイダーを起用した『さすらいの二人』を発表し、ラストの7分間の長回しが話題になった。1983年にはそれまでの功績により、ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を授与された。

1985年に脳卒中に見舞われ、以後は半身の麻痺と言語障害に苦しんだ。それでも1995年にヴィム・ヴェンダースを共同監督に指名し、自身の短編小説を映画化したオムニバス『愛のめぐりあい』で、13年ぶりに監督として復帰した。同年、アカデミー賞の名誉賞も受けた。私生活では、1942年にレティツィア・バルボーニと結婚して1954年に離婚し、1986年に『ある女の存在証明』に出演したエンリカ・アントニオーニと再婚して、生涯連れ添った。テオ・アンゲロプロスやアンドレイ・タルコフスキーら、多くの監督に影響を与えたとされる。

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