伝記
マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスは、共和政ローマ中期の政務官で、紀元前234年に生まれ、紀元前149年に亡くなった。清廉で弁舌に優れ、執政官と監察官を務めた。曾孫の小カトと区別して、大カトとも呼ばれる。第三次ポエニ戦争の原因の一つとされる「カルタゴ滅ぶべし」の言葉で知られ、大スキピオの政敵ともされるが、最初から対立していたとは考えられていない。
平民の家系でトゥスクルムの出身であり、赤みがかった髪と青みがかった瞳が特徴だったという。高い家柄の出ではないいわゆる新人で、父を武勇で国家に功績のあった人としていた。父から百五十ユゲラほどの土地を受け継いだと推測される。近所にはサムニウム戦争の英雄デンタトゥスの家があり、彼はそこを何度も訪れて質素な暮らしを手本にしたといい、第二次ポエニ戦争で従軍したのちピュタゴラス派の師に学んで、いっそう質素倹約を旨とするようになったとされる。プルタルコスによれば、農地が接していたウァレリウス・フラックスが勤勉ぶりを聞いて彼をローマ市へ引き立て、弁舌によって注目を集めて出世したという。のちにデモステネスにたとえられた。
軍人としては紀元前214年に士官としてシキリアで戦い、紀元前207年にはメタウルスの戦いに参加し、紀元前204年には財務官として大スキピオのもとでアフリカに従軍した。プルタルコスは、彼が大スキピオを金の使い方などで非難したと伝えるが、リウィウスの記述ではスキピオの艦隊の一翼を担っており、学者の間では、両者の対立を演出するための作り話と考えられている。その後、紀元前199年に平民按察官、翌年にはサルディニア担当の法務官となり、高利貸しを厳しく取り締まった。前任者が住民の負担で贅を尽くしたのに対して、彼の統治は質素で、それでいて正義を厳しく追及したという。
紀元前195年にフラックスとともに執政官となり、ヒスパニアの戦争で勝利した。船で進出して戦い、乗ってきた船を帰らせて退路を断ち、兵を鼓舞したとも伝わる。エブロ川流域を平らげて反乱を起こした部族を鎮圧し、彼らを奴隷として売り払い、一説では四万人以上を殺したとされる。この年、女性の贅沢を禁じるオッピウス法の廃止に反対したが、女性たちが護民官を取り囲む騒ぎとなり、廃止が決まった。帰国後は前執政官として凱旋式を挙行した。紀元前191年にはテルモピュライの戦いで、山を守る敵を破り、アンティオコス3世の背後に現れて混乱させたという。
紀元前190年には、リグリア担当の前執政官ミヌキウス・テルムスが凱旋式を求めたのに対し、戦功報告は虚偽で、自由民の不当な処刑などの職権濫用もあったとして反対した。紀元前189年の監察官選挙では、人気のあった有力候補グラブリオが、新人の台頭を好まない貴族に戦利品横領の罪で告発され、カトが不利な証言をしたため選挙から降りたが、この年に当選したのは別の二人で、カト自身も選ばれなかった。この件が大スキピオとの関係を悪化させた可能性もある。紀元前187年には、弟スキピオ・アシアティクスをかばって大スキピオが帳簿を破り捨てる出来事があり、カトはこれをきっかけに大スキピオを追及することになる。
紀元前184年、フラックスとともに監察官に当選する。元老院議員七名を譴責し、その中にはフラミニヌスの兄弟ルキウスも含まれた。彼が問題視したのは、執政官の懲罰権の乱用であっただろうとされる。この譴責が原因で、リウィウスによれば、彼は晩年まで裁判に悩まされることになったという。
同じ年に亡くなった人物
- バビロニアのディオゲネス (紀元前149)
同じ地域に関係する人物
- エドアルド・アマルディ (1989年没)
- ミケランジェロ・ブオナローティ (1564年没)
- 聖アグネス (304年没)
- バルトロメオ・マンフレディ (1622年没)
- マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス (238年没)