伝記
フラント・ディンクは、トルコのアルメニア系ジャーナリストで、人権活動家でもある。9月15日に東部のマラティヤで生まれた。生年は1954年とも1955年ともされる。3人兄弟の長男で、父サルキスは仕立屋、母ギュルヴァルトはスィヴァス県の出身だった。父の賭け事による借金のため、一家は1960年に新しい出発を求めてイスタンブールに移ったが、父の賭け事は続き、翌年に両親が別れて、7歳のディンクと弟たちは住む場所を失った。祖母は3人の兄弟をゲディクパシャのアルメニア人孤児院に入れた。7つの言語を話し、いつも本を読んでいた祖父を、文字を愛する心を育てた父親代わりの手本として、ディンクはしばしば語っている。
孤児院での暮らしは10年続いた。子どもたちは夏にはマルマラ海に面したトゥズラのアルメニア人の子どもたちのキャンプで過ごし、自分たちの手でキャンプを造り、改良した。このキャンプは、彼にとって個人的にも職業の面でも大きな意味を持った。のちに妻となるラケル・ヤウバサンと、子どものころにここで出会い、のちに結婚式もここで挙げたからである。また、1984年に政府の主導でキャンプが閉鎖されたことは、アルメニア人社会の問題への関心を高め、活動家になる要因の一つになった。中等教育は、ユスキュダルのアルメニア系の高校で受けたが、最終学年に退学処分を受け、ほかの公立高校で卒業した。イスタンブール大学で動物学を学び、学生時代は左翼の武装組織に共感していたが、恋をして友人たちと別れた。1972年には、友人2人とともに、名をトルコ風のフュラトに法的に改めている。学部を修了し、哲学科に入ったが卒業はしなかった。
のちにアルメニア語とトルコ語の二言語の週刊紙『アゴス』を発行し、編集長を務め、トルコ国内のアルメニア人の少数派を代表する一人となった。第一次世界大戦中に行われた「アルメニア人虐殺」を告発する一方で、アルメニア人とトルコ人の和解を訴え続けた。トルコが虐殺を否定していることも、国外のアルメニア人離散者が国際的な承認を求める運動も、批判の対象にした。2005年には「国家侮辱罪」で有罪とされ、禁錮10か月の判決を受け、執行は猶予された。3度にわたり「トルコ人を侮辱した」として訴追され、トルコの民族主義者から多くの殺害予告を受けていた。2006年にフランスの国民議会で「アルメニア人虐殺否定禁止法」が可決されると、これを「過激な行動」と批判した。
2007年1月19日、イスタンブールのシシリ地区にある『アゴス』の入り口で、17歳のオギュン・サマストに射殺された。頭に3発を撃たれ、即死であった。ヤースィン・ハヤルの教唆があったとされる。事件は、トルコ社会に大きな衝撃を与えた。エルドアン首相は「ディンク氏に向けられた銃弾はわれわれに向けられたものである」と述べて非難した。犯人がトルコの国旗の前で警察官とともに笑って写る写真が出て、問題になり、関係者が処分された。サマストはのちに禁錮22年の判決を受けた。葬儀には10万人以上が集まり、「私たちはみなアルメニア人だ」「私たちはみなフラント・ディンクだ」と叫んで歩いた。死後、刑法301条への批判が強まり、議会でも廃止の提案が出された。
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