伝記
ベーナズィール・ブットーは、1953年6月21日、パキスタンのカラチに生まれた政治家で、イスラム諸国で初の女性首相となった人物である。父は元首相のズルフィカール・アリー・ブットーで、後に軍事クーデターを経て処刑された。父方の祖父はシンド人で、パキスタン独立運動の中心人物の一人だった。1969年4月にアメリカ・ハーバード大学のラドクリフ・カレッジに入学し、後にオックスフォード大学のレディー・マーガレット・ホールでも学んだ。1971年にインドが東パキスタン(現バングラデシュ)へ軍隊を派遣し、父が外相として国連に赴くと、大学を一時離れてニューヨークで父を助けた。この経験は、後の政治活動の大きな糧になった。1973年に政治学の学位を得て大学を卒業し、在学中は優等学生の友愛会の会員に選ばれた。同年秋にオックスフォードへ進み、政治学・哲学・経済学で修士号を得て、オックスフォード・ユニオンの議長に就任した初のアジア人女性となった。
オックスフォードを出て1977年にパキスタンに帰国したが、当時はジアー・ウル・ハクによる軍事政権で、父の監禁と処刑の過程で自宅軟禁を受け、何度も投獄された。1984年にイギリスへの渡航が許されて、亡命したまま、父の政党であるパキスタン人民党の党首に就いた。ジアーが死ぬまで、パキスタンでの政治的な存在感を示せなかった。1986年に帰国したのち、1988年11月16日の選挙で人民党が国民議会の単独与党となり、12月2日に宣誓して、35歳でイスラム諸国の最年少、初の女性政府代表である第12代首相となった。首相に選ばれて20か月後の1990年8月6日、汚職を告発され、軍の支持でクーデターを起こして大統領に就いたグラーム・イスハーク・ハーンに解任された。同年10月の選挙で人民党は敗北し、その後の3年間は野党の指導者を務めた。
1993年10月19日、選挙で再び勝利して首相に返り咲いた。2期目には女性の権利の向上や経済の民営化を進めたが、家族の汚職や賄賂の疑惑で政権の支持率が低迷し、1996年11月5日にさまざまなスキャンダルを理由に再び解任された。夫のアースィフ・アリー・ザルダーリーはスキャンダルへの関与で逮捕され、2004年11月まで収監された。ブットーは1998年にドバイへ亡命し、国際刑事警察機構は2006年、パキスタン政府の要請で夫妻の国際手配書を発行した。2002年、ムシャラフ大統領は首相が2期以上務めることを禁じる憲法改正を行い、ブットーの再任の可能性は憲法上消えた。
アメリカの仲介やムシャラフとの交渉もあり、2007年10月に帰国した。民政の再建とイスラム主義者の暴力への反対を掲げたが、カラチで帰国遊説中に自爆テロに遭い、難を逃れた。12月27日、ラーワルピンディーでの選挙集会の後に、銃撃と自爆テロに巻き込まれ、病院で死亡が確認された。集会にいた支持者や警官にも20名ほどの死者が出た。亡骸は翌日に一族の墓に葬られ、人民党は長男のビラーワルを新総裁に選んだ。アフガニスタンでは、彼女の政権下でターリバーンが勢力を伸ばした。西欧では民主化の闘士として高く評価されるが、専門家の中には異論もある。
同じ年に亡くなった人物
- Du'a Khalil Aswad (2007年没)
- コリン・マクレー (2007年没)
- ジム・グレイ (2007年没)
- アブドッラフマーン・アーリフ (2007年没)
- マリエトア・タヌマフィリ2世 (2007年没)
同じ地域に関係する人物
- ファイズ・アハマド・ファイズ (1984年没)
- シハーブッディーン・ムハンマド (1206年没)
- ムハンマド・ラッバーニー (2001年没)
- マーリク・フィーローズ・ハーン・ヌーン (1970年没)
- トーダル・マル (1589年没)