伝記
ヨーン・ウツソンは、1918年4月9日にデンマークのコペンハーゲンで生まれ、2008年11月29日に没した建築家である。シドニー・オペラハウスの画期的なデザインで高く評価されている。
造船技師の息子として生まれ、デンマーク北部のオールボーで育った。船に興味を持ち、海軍の道を考えていたが、家族に美術への関心があったことから、1937年にコペンハーゲンのデンマーク王立美術院に入り、スティーン・アイラー・ラスムッセンらに師事した。1942年の卒業後はストックホルムでグンナール・アスプルンドのもとに加わり、アルネ・ヤコブセンらと働いた。第二次世界大戦が終わると、コペンハーゲンへ戻った。1946年にヘルシンキでアルヴァー・アアルトを訪ね、1948年にモロッコで背の高い粘土の建物に心を奪われた。1949年にはアメリカとメキシコを旅した。メキシコでは、マヤの人々が神に近づこうとして空に向かって建てたピラミッドに魅了され、人生で最も偉大な建築体験の一つだったと語っている。アメリカでは、フランク・ロイド・ライトのタリアセン・ウェストを訪れ、ミース・ファン・デル・ローエやチャールズ・イームズ夫妻とも出会った。1950年にコペンハーゲンに事務所を開き、1952年に、デンマークで初めての間仕切りの少ない自邸を建てた。ヘルシンゲル近郊の63戸のキンゴー住宅群(1956年)や、フレーデンスボルグ近郊の小さな住宅地(1962年)などを設計し、建築設計競技にも多数参加して、1963年にはチューリッヒ新劇場の設計競技で1等となった。
1957年に、オーストラリアのシドニーに建設される予定のオペラハウスの設計競技に応募し、思わぬ勝利を収めた。彼の案は、図面ではなく、考えを書き留めたドローイング程度のもので、応募の基準に合わないとして一度落選していた。しかし審査員だったエーロ・サーリネンが、コンクリート・シェルの自由な造形で建物を覆い支えるアイデアを気に入り、最終選考に復活させて強く支持したとされる。以後、建設の指揮と設計の修正に取り組み、2つの大ホールを覆う巨大な放物線状のシェルを、1961年に、球面を組み合わせたような形に改めた。オレンジの皮をむく行為から着想を得たと語り、14枚のシェルを合わせれば、完全な球になるという。
しかし1965年の選挙で州政府の首相がロバート・アスキンに替わると、新内閣と衝突した。建設費が当初の予算を大幅に上回っていることを理由に、公共事業相のデイヴィス・ヒューズが、デザインや工程、費用について彼を問いただし、支払いを止めたことをきっかけに、1966年2月に設計者の地位を辞した。内装の設計案は実現しないまま、不本意な形で終わった。彼はシドニーの事務所を引き払ってオーストラリアを去り、以後二度とシドニーの地を踏まなかった。デンマークへ戻る途中、地中海のマリョルカ島に立ち寄って風光に印象を受け、のちに妻リズの名を採った夏の別荘を建てた。オペラハウスは、引き継いだ建築家チームの手で完成し、1973年に女王エリザベス2世によって開館した。
2003年にシドニー大学から名誉博士号を贈られ、旅行できない彼に代わって息子が受け取った。この年、建築界の最大の栄誉であるプリツカー賞も受賞している。2000年にはオペラハウスの内装の一部の再デザインに合意した。引退後はスペインで過ごした。2007年6月28日、シドニー・オペラハウスは世界遺産に登録され、彼は、存命中に自作でそのように認められた、二人目の人物となった。
同じ年に亡くなった人物
- アルジス・バドリス (2008年没)
- ジョイ・ペイジ (2008年没)
- ジョアン・セガーラ (2008年没)
- ブラッド・レンフロ (2008年没)
- ディンギリ・バンダー・ウィジェートゥンガ (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- ニールス・ボーア (1962年没)
- ヨハン・イェンセン (1925年没)
- ルズヴィ・ホルベア (1754年没)
- クリスチャン4世 (デンマーク王) (1648年没)
- ゲーオア・ブランデス (1927年没)