伝記
ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアは、1885年10月7日、デンマークのコペンハーゲンに生まれた。父クリスティアンは「ボーア効果」で知られる生理学者で、母はユダヤ系であった。1903年にコペンハーゲン大学に入り、1905年には液体の表面張力に関する実験的研究で、デンマーク王立科学アカデミーから金メダルを受けた。1911年の博士論文では、金属中の電子を古典論で扱うかぎり磁性が生じないことを示している。同年にイギリスへ留学し、キャヴェンディッシュ研究所でジョゼフ・ジョン・トムソンのもとで研究したのち、マンチェスター大学のアーネスト・ラザフォードのもとで原子模型の研究に取りかかった。研究はもともと実験物理学から始まったが、ラザフォードのもとで理論家に転向し、このとき水素原子のボーア模型の着想を得たという。
コペンハーゲン大学に戻ると、ラザフォードの原子模型の欠点を、プランクの量子仮説を用いて解消し、1913年にボーアの原子模型を確立した。同時に対応原理も唱えた。1921年にはコペンハーゲンに理論物理学研究所(のちのニールス・ボーア研究所)を開き、外国から多くの物理学者を迎えて、コペンハーゲン学派と呼ばれる集団を築いた。原子物理学への貢献により、1922年にノーベル物理学賞を受けた。ハイゼンベルクらとともに量子力学(行列力学)の形成を進め、1926年にシュレーディンガーが波動力学を発表すると、彼をコペンハーゲンに招いた。討論に疲れ果ててシュレーディンガーが病床に就いても議論を続けたことはよく知られ、議論の場で決して手を抜かない人柄であった。一方、ハイゼンベルクとは意見が対立するようになり、疲れたボーアはノルウェーにスキーに出かけた。量子力学に反対するようになったアインシュタインとも論争を重ねて説得を試みた。アインシュタインがマックス・ボルンに宛てた手紙の「神はサイコロを振らない」に対し、「神に何をなすべきか語るなかれ」と反論したという逸話がある。粒子と波動の二重性、位置と速度の間の不確定性が示す世界像を「相補性」と名づけ、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして、易経などを研究した。デンマーク最高のエレファント勲章を受けたときは、紋章に太極図を選んでいる。
第二次世界大戦では、1941年9月にハイゼンベルクと会い、原子炉の図を手渡された。ハイゼンベルクがドイツに有利な情報を引き出そうとしているのではと恐れ、会話を中断したとされる。ユダヤ人の母を持つボーアは、1943年にイギリスの助けで、ドイツの支配下にあったデンマークから秘密裏に出国した。のちアメリカに渡り、受け取った図をロスアラモス研究所の物理学者たちに渡した。ウラン235のほうが分裂しやすいという1939年の彼の予想は、原子爆弾開発の重要な根拠となったが、軍拡競争を憂慮した彼は、ソ連も含めた原子爆弾の管理と使用に関する国際協定の締結に奔走し、願いは叶わなかった。
弟のハラルトは数学者で、サッカーでオリンピックの銀メダルを獲得した。ニールスも若い頃は、コペンハーゲンのアマチュアチームでゴールキーパーを務めた。論文の原稿は十回以上も書き直して完璧を目指す性格であった。1937年に来日した際には、観光で見た富士山を相補性原理の説明に使った。息子オーゲも1975年にノーベル物理学賞を受けた。1962年11月18日に没した。没後の1997年には、107番元素が「ボーリウム」と命名された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァルター・アンダーソン (1962年没)
- フレデリック・シュール (1962年没)
- フランツ・コンヴィチュニー (1962年没)
- マイケル・カーティス (1962年没)
- アルフレッド・コルトー (1962年没)
同じ地域に関係する人物
- オーゲ・ニールス・ボーア (2009年没)
- トルベン・ウルリッヒ (2023年没)
- ロヴィーサ・アヴ・スヴェーリエ (1926年没)
- ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル (1898年没)
- ヘンリック (デンマーク王配) (2018年没)