伝記
スハルトは、1921年6月8日、オランダ領東インド時代のインドネシア、中部ジャワのジョグジャカルタ近郊の農村ゴデアン村に生まれた。父は村の水利役人、母はジョグジャカルタのスルタン夫人の遠縁にあたる女性だった。両親の離婚に伴って各地を転々としながら、現地語のジャワ語で小学校教育を終え、18歳で中学校を卒業した。農業銀行の見習い行員を経て、王立オランダ領東インド陸軍に入隊し、すぐに軍曹に昇進した。しかし太平洋戦争の開戦後、オランダ軍が日本軍に降伏し、彼も職を失った。
日本軍政期の1943年、軍政当局が組織した郷土防衛義勇軍に採用され、小隊長、中隊長へと昇進して、インドネシア人士官の訓練にもあたった。日本の降伏から2日後の1945年8月17日にスカルノが独立を宣言すると、義勇軍は解散したが、植民地支配の復活をねらうオランダとの間に独立戦争が始まった。彼は同年9月に組織された正規軍に参加して副大隊長に選ばれ、翌月に共和国軍が発足すると大隊長に任命された。独立戦争のあいだに野戦指揮官としての評価を高め、1947年にはスラカルタの下級貴族の出のシティ・ハルティナと結婚している。独立後も陸軍で実績を重ね、1963年には陸軍戦略予備軍の司令官に就いた。
当時スカルノは、勢力を広げていたインドネシア共産党を支持基盤とし、外交でも親共産圏の路線を強めていた。1965年9月30日、大統領親衛隊長のウントゥン中佐が率いる左派系の軍人が、陸軍の6人の将軍を殺害する事件が起きた。経緯は今も明らかでなく、スハルトが事前に計画を察知していたという説もある。スハルトはスカルノから事態の収拾にあたる権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。陸軍大臣兼陸軍参謀総長となった彼のもとで、共産党の指導者や党員、関係を疑われた一般住民が大虐殺され、党組織は物理的に解体された。犠牲者は50万人前後ともいわれるが、総数は今も不明である。1966年3月11日、スカルノは秩序回復の一切の権限を与える「3月11日命令書」に署名し、実権をスハルトに譲った。スハルトは1967年3月に大統領代行、1968年3月に第2代大統領に就任した。
大統領としては、親米・反共路線へ外交方針を改め、インドネシアを国連に復帰させ、1967年に東南アジア諸国連合を創設して、近隣国との関係強化に努めた。1975年には東ティモールに武力介入して併合し、アチェの独立運動にも国軍を投入して厳しく臨んだ。自らの出身母体である国軍と、職能集団ゴルカルを支持基盤とし、選挙への介入で与党を勝たせ続けた。独立運動の弾圧、活動家の拉致や拷問、批判的な報道への弾圧は、海外からも強い批判を招いた。親族や側近への利権の付与は、政権の腐敗として問題視された。1997年以降、アジア通貨危機で経済は大きな打撃を受け、1998年3月に7選されたが、学生の反政府デモが全土に広がり、5月21日に辞任を宣言し、副大統領のハビビに職を譲った。2006年5月、高齢と病気を理由に訴追は停止された。1999年に脳梗塞で倒れて以来、入退院を繰り返し、2008年1月27日、多臓器不全のためジャカルタの病院で亡くなった。
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