伝記
イレーナ・センドラーは、1910年2月15日、ロシア帝国支配下のワルシャワで生まれたポーランドの社会活動家である。のちにセンドレロヴァ、ズグジェムプスカの姓も名乗った。両親は、ローマ・カトリックの信徒だった父スタニスワフ・クシジャノフスキと母ヤニーナで、民族や社会的身分にとらわれず、他人に敬意と愛情を向ける人々だった。父は医師で、1917年のチフスの大流行のときに、ワルシャワ近郊の町でユダヤ人をはじめ貧しい人々の治療にあたったが、自らも同じ病で亡くなった。その父は娘に、溺れている人に出会ったら、泳げなくとも助けようとしなさいと言い遺したという。
ワルシャワ大学の文学部でポーランド文学を学んだ。ポーランド社会党の党員だった父の影響で、自分も社会党に入り、戦争の前はソーシャルワーカーとして活動した。ナチス・ドイツがポーランドを占領した戦争中は、ワルシャワに住んで社会福祉局に勤め、ゲットーができるよりずっと前からユダヤ人の援助に取り組んでいた。ユダヤ人をかくまったことが発覚すれば、本人だけでなく家族までも殺された。これは、ナチス・ドイツの占領下にあったヨーロッパ諸国のなかでポーランドにだけ適用された厳しい措置だった。
1942年12月、ゲットーの外の非ユダヤ系のポーランド人による地下組織「ユダヤ人救済委員会」に児童関係の部門が設けられると、彼女はヨランタという偽名でその長に任命され、約20人のメンバーを率いた。社会福祉局の職員として、ワルシャワ・ゲットーにチフスの兆候がないかを調べる立場で出入りできた。ゲットー内ではユダヤ人との連帯を示すとともに、目立たなくなるために、ダビデの星を身につけた。ナチスのユダヤ人への政策が強制収容所への連行(虐殺)に進むなかで、子供たちをゲットーから脱出させる活動を組織した。箱やスーツケース、手押し車に子供たちを入れ、あるいはスカートの中に隠して、数多くを連れ出した。子供たちはポーランド人の家庭や孤児院、カトリックの修道院などにかくまわれ、司祭館に送られてからどこかへ移された子もいた。彼女は子供たちの本名と新しい偽名を書いたリストを瓶に隠し、リンゴの木の下に埋めて保管した。その数は約2500人にのぼるとされる。
1943年にゲシュタポに逮捕され、収容所で何度も拷問を受けたが、沈黙を守り、助けた子供たちの名前を明かさなかった。死刑を宣告されたが、地下組織が護衛のドイツ兵に賄賂を渡して解放を取りつけた。解放された彼女は、腕や脚を折られ、意識を失ったまま森に放置されていたという。ナチスの広報では処刑者として名が載ったため、身を隠して援助を続けた。助けられた人々は、自分たちを「センドラーの子供たち」と呼ぶ。
1965年にヤド・ヴァシェムが「諸国民の中の正義の人」に認定し、これは、共産党政府から渡航許可を得た1983年に贈られた。2003年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から親書を受け、同年10月、ポーランド政府から民間人に贈られる最高位の白鷲勲章を授けられた。2007年3月、上院から表彰され、ポーランド大統領は「彼女はノーベル平和賞に値する」と述べた。同年のノーベル平和賞の候補になった。97歳の彼女は養老院を出られず、代理人が声明を読み上げた。この代理人は、彼女が戦中に救った赤ん坊の一人だった。仲間の多くが長く生きられず栄誉を受けられなかったことが自分の心に影を落としている、と語った。結婚は二度で、二人の息子と一人の娘がいた。2008年5月12日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- メート・パルロフ (2008年没)
- Saukam Khoy (2008年没)
- バーニー・マック (2008年没)
- ジョシュア・レーダーバーグ (2008年没)
- Juan Ayra Rodriguez (2008年没)
同じ地域に関係する人物
- イェジー・カヴァレロヴィチ (2007年没)
- Elisabeth Baumann (1881年没)
- ヤヌス・クソチンスキー (1940年没)
- Wladyslaw Tatarkiewicz (1980年没)
- イツホク・レイブシュ・ペレツ (1915年没)