伝記
シド・チャリシーは、1922年3月8日に生まれ、2008年6月17日に没したアメリカ合衆国の女優であり、ダンサーである。1950年代のハリウッド黄金期にミュージカル映画で活躍し、フレッド・アステアとジーン・ケリーの相手役として知られた。
本名はトゥーラ・エリス・フィンクリアといい、テキサス州アマリロで、宝石商の父アーネスト・エノス・フィンクリア・シニアと、母リーラ(旧姓ノーウッド)の間に生まれた。「シド」という呼び名は、年上の兄が「シス」と言おうとしたことに由来し、のちにアーサー・フリードが「Cyd」と綴るようにしたという。幼い頃は病弱で、小児まひを患ったあと、体力をつけるために6歳でダンスを習い始めた。12歳でロサンゼルスでバレエを学び、14歳でモンテカルロ・バレエ・リュスの試験を受けて合格し、「シデロヴァ」などの芸名で踊った。ヨーロッパ巡業の際に、ロサンゼルスで一時ともに学んだ若いダンサーのニコ・チャリシーと再会して、1939年にパリで結婚し、長男を産んだ。第二次世界大戦の勃発でバレエ団が閉じると、ロサンゼルスに戻り、コール・ポーター作のミュージカル映画でダンサー役を得て、女優としてデビューした。この映画の振付師が、ジーン・ケリーを見いだした人物でもあったことから、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーで、プロデューサーのアーサー・フリードの創作集団に加わり、専属のバレエ・ダンサーとなった。
最初にアステアと共演したのは、1946年に公開された『ジーグフェルド・フォリーズ』の短い場面である。評判がよく、同年の『ハーヴェイ・ガールズ』では、ジュディ・ガーランドの脇役で、初めての台詞のある役を得た。ジーン・ケリーとは、『雨に唄えば』(1952年)の有名な「ブロードウェイ・メロディ」のバレエの場面で初共演した。デビー・レイノルズが訓練を受けたダンサーではなかったため、ケリーがチャリシーを相手に選んだと伝えられる。1953年の『バンド・ワゴン』ではヒロインを演じ、アステアとのダンスは絶賛された。その後も『ブリガドーン』(1954年)、『いつも上天気』(1956年)でケリーと組み、1957年にはアステアと再び組んで、『絹の靴下』で、グレタ・ガルボの有名な役を演じた。アステアは自伝で、彼女を「美しいダイナマイト」と呼んで賛辞を贈っている。1952年には、その美しい脚に500万ドルの保険がかけられて、ベティ・グレイブルの記録を抜いたと話題になった。
1950年代の後半にミュージカルの黄金期が終わると、ダンスを披露する機会はなくなったが、映画やテレビに出続けた。1990年にはジャネット・ジャクソンの音楽映像に出演し、中高年向けの運動ビデオも発売した。1991年にはブロードウェイの舞台に初めて立った。80代でも現役で、ハリウッドの黄金期を扱った記録映画に度々出演し、2001年には「最も価値のある脚」の持ち主として取り上げられた。2006年にはアメリカ国家芸術人文科学勲章を受けた。1947年にニコと離婚したのち、1948年に歌手のトニー・マーティンと再婚して次男を産み、60年余りにわたって妻であり続けた。2008年6月、ロサンゼルスの病院で心臓発作のため、86歳で亡くなった。
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