伝記
ボビー・フィッシャーは、本名をロバート・ジェームズ・フィッシャーといい、1943年3月9日にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれたチェスプレーヤーである。母レジーナはモスクワで生物物理学者ハンス・ゲルハルト・フィッシャーと結婚して娘ジョーンをもうけたが、ソ連で反ユダヤ主義が広がるとパリへ移り、のちに離婚して子を連れアメリカへ戻った。生活は苦しく、ボビーを産んだときはホームレス同然だったという。出生証明書の父親欄にはハンスの名があるが、ハンスは生涯アメリカに入国しなかったとされ、別の科学者が実の父ではないかという説も伝わっている。
1949年、6歳のとき、落ち着きのない弟を静かにさせようと姉が1ドルのチェス・セットを与えてルールを教えた。ボビーはたちまちその虜になった。母は、チェスにしか関心を示さず社交的でない息子を案じて精神科に連れて行く一方、チェスの本を買い与え、クラブに付き添い、ソ連政府へ招待を依頼する手紙まで書いて支えたという。1957年、14歳でインターナショナル・マスターとなり、翌1958年にはグランドマスターの称号を得た。15歳でのグランドマスターは当時の世界最年少記録だった。駒を惜しげもなく捨てて勝つ大胆な指し方でも知られ、早くから「天才」と呼ばれたが、1962年に国際舞台から退き、1966年に復帰したあと1968年に再び引退した。
1970年のソ連対世界選抜戦で盤上に戻ると、1971年の挑戦者決定戦でマルク・タイマノフに6対0、ベント・ラーセンにも6対0で完勝し、前世界王者チグラン・ペトロシアンを5勝1敗3引き分けで退けて挑戦権を得た。同年7月に初めて公開された国際チェス連盟のレーティングリストでは世界1位に立った。1972年、アイスランドのレイキャビクで行われた世界選手権でボリス・スパスキーを破り、世界王者となった。ソ連が戦後ほぼタイトルを独占してきた冷戦下の出来事で、アメリカでは英雄として迎えられた。しかし1975年、防衛戦の条件を巡って連盟に多くの要求を出し、その一つが否決されると、挑戦者アナトリー・カルポフとの対戦に臨まないまま王座を返上した。
以後は試合を拒んで表舞台から消え、1970年代には信仰し献金していた福音系の新宗教団体の施設で暮らした。やがて反ユダヤ的な発言が目立つようになったが、両親がユダヤ系である以上、自身もユダヤ系である。1992年にはハンガリーの若い女性プレーヤーの働きかけを受け、ユーゴスラビアでスパスキーとの再戦に臨んで勝ち、300万ドル以上の賞金を得た。ユーゴスラビアへの経済制裁に違反したとしてアメリカ政府に起訴され、国籍も剥奪された。その後は各地を転々とし、2000年ごろには日本とフィリピンが主な拠点になっていたという。
2004年7月、成田空港から出国しようとして入管法違反の疑いで収容された。支援者が各国で動き、同年12月にアイスランド政府が人道的見地から市民権を与え、2005年3月に日本政府は出国を認めて釈放した。晩年はアイスランドで静かに暮らし、2008年1月17日、肝臓病により64歳で死去した。フィッシャーはチェス960の考案者としても知られる。
同じ年に亡くなった人物
- エステル・ゲティ (2008年没)
- Roberto Eliseo Sosa Echartea (2008年没)
- フランシスコ・ジェジーノ・アバンジ (2008年没)
- エメ・セゼール (2008年没)
- イヴリン・キース (2008年没)
同じ地域に関係する人物
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- スヴェイン・ビョルンソン (1952年没)
- トルフィ・ブリンゲイルソン (1995年没)
- Thorbergur Thordarson (1974年没)
- クリスチャン・ヨンソン (1926年没)