伝記
エゴール・ガイダルは、1956年3月19日にソビエト連邦のモスクワで生まれた経済学者・政治家である。父チムールは海軍少将で作家としても知られ、父方の祖父は「赤いコミッサール」と恐れられたのち人気児童文学作家となったアルカジー・ガイダル、母方の祖父は作家のパーヴェル・バジョフだった。父の任地で幼少期を過ごし、1962年のキューバ危機の際にはキューバに、1966年にはユーゴスラビアにいた。ユーゴスラビアでは市場経済を取り入れた社会主義国の姿を目にしたと、のちに本人が語っている。数学の才を見込んだ父から出費の報告書づくりを任されたことが、経済学への関心の始まりだったという。
モスクワ大学経済学部を卒業して大学院に進み、スタニスラフ・シャターリンの指導を受けて経済学博士号を得た。研究所勤務を経て、共産党の機関誌「コムニスト」や「プラウダ」の編集局にも籍を置いた。1990年には移行期経済問題研究所を設立して所長となった。1991年8月のソ連のクーデターでは、エリツィンの声明に同調して研究所のスタッフとともにロシア最高会議ビルに駆けつけ、その防衛に加わった。同年9月に経済改革案をまとめ、11月にはその案をエリツィンに評価されて、35歳の若さでロシア共和国の経済担当副首相に抜擢された。
1992年1月、「ショック療法」と呼ばれる価格自由化政策を断行し、3月には第一副首相兼大蔵大臣に昇格した。しかし改革はハイパーインフレーションを招いて国民生活に大打撃を与え、4月の人民代議員大会では激しい批判を浴びた。エリツィンは保守派と妥協して大企業の経営者を入閣させ、路線を穏健な方向へ転換する一方、6月にはガイダルを首相代行に指名した。だが12月の人民代議員大会は首相就任を承認せず、首相にはヴィクトル・チェルノムイルジンが任命され、ガイダルは辞任した。
1993年9月に第一副首相兼経済相として再び入閣し、同年12月には急進改革派を集めた政治ブロック「ロシアの選択」を率いて下院議員に当選した。ただし選挙で第一党となったのはジリノフスキーの自由民主党で、改革派の後退が際立った。1994年1月に第一副首相を解任され、10月には「ロシアの民主的選択」を結成したが、1995年12月の下院選では得票率が3.86パーセントにとどまり、議席獲得に必要な5パーセントに届かず自身も落選した。第一次チェチェン紛争の軍事侵攻には反対した。1998年8月にはアナトリー・チュバイスとともにキリエンコ首相へルーブル切り下げとデフォルト宣言を勧告し、これがロシア金融危機を招いてキリエンコ内閣の崩壊につながった。1999年に右派勢力同盟から比例区で当選して議員に返り咲いたが、2003年12月の選挙で再び落選し、強権化を強めるプーチン政権には批判的な姿勢を貫いた。
2006年11月24日、訪問先のアイルランドで原因不明の吐血と手足の麻痺に襲われてモスクワの病院に入院し、敵対勢力による毒殺の可能性を主張した。この時は一命を取り留めたが、2009年12月16日にモスクワ近郊の自宅で死去した。死因は動脈血栓症とも、心筋虚血に誘発された肺水腫ともいわれる。評価は完全に二分され、批判者は「ロシア経済の破壊者」と呼ぶ一方、「ロシア経済の崩壊を食い止めた救世主」とする声も少なくない。盟友チュバイスは、ガイダルが1990年代初めのロシアの分裂と内戦と飢饉を防いだと述べて死を悼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヤスミン・アハマド (2009年没)
- Leela Naidu (2009年没)
- ラーマスワーミー・ヴェンカタラーマン (2009年没)
- ジョン・ハート (2009年没)
- イアン・カー (2009年没)
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- アレクサンドル・ゴレリク (2012年没)
- レフ・デミン (1998年没)