伝記
レシェク・コワコフスキは、1927年10月23日にポーランド第二共和国のラドムで生まれた哲学者・作家である。父イェジーは社会教育活動家で、労働者協同組合の理論家として出版活動も行い、幼児洗礼は不適切だと考える独自の信念を持っていた。母ルツィナは教師だったが、レシェクが3歳のときに精神病院で亡くなった。幼少期から小学校時代をラドムとウッチで過ごし、1939年9月まで父に育てられた。同月、ドイツとソ連の侵攻でポーランドは分割され、戦争が始まった。コワコフスキは南東部の村などを転々とし、1943年の一時期はワルシャワにも住んだが、その間、救出されたユダヤ人とアパートで同居していた。1943年には父がゲシュタポに逮捕されて処刑された。その後は叔母のもとや研究者のもとで暮らし、占領下で正規の教育は受けられなかったものの、個別指導と自習で補い、地下国家の高校を卒業した。
1945年末にウッチ大学で学び始め、同年に共産主義青年組織と労働者党に加わった。精神科医のタマラと結婚し、1949年にワルシャワへ移ってアダム・シャフらの助手となり、統一労働者党中央委員会の研修所で働いた。熱心な大学院生で、1950年3月にはヘンリク・ホランドとともに、哲学者タタルキェヴィチをマルクス主義への敵対的態度として告発する公開書簡「7人の手紙」に署名している。同年モスクワで研修を受けたが、かえってスターリン体制がもたらした物質的・精神的な荒廃の大きさを知ることになった。1953年にワルシャワ大学でスピノザを論じた論文により博士号を取得した。
1956年のスターリン批判、ポズナン暴動、10月の政変を経て、スターリン主義と決別し、マルクスのヒューマニズム的な解釈を唱える修正主義的マルクス主義者となった。同年の宣言文「社会主義とは何か」は検閲で発禁となり、地下で流通した最初の論文となった。1957年から1968年までワルシャワ大学近代哲学史学科の教授・学科長を務め、1959年の『司祭と道化師』では、マルクス主義に世俗的終末論という神学の伝統が流れていると指摘し、絶対的な哲学の信奉者を司祭、それを疑う者を道化師に見立てて自らを後者とみなした。1964年の「規範なき倫理」は、アダム・ミチニクら若い修正主義者に影響を与えた。1966年10月、ワルシャワ大学での講演が公式の正典からの逸脱とされ、27日に統一労働者党から除名された。除名後は神話の役割を論じる著作に取り組み、人間は世界の意味を体験したいという欲求を持つが、それは合理性では満たせず神話を求めるのだと述べた。
1968年3月の学生の抗議に参加したことで大学の職を失い、講演も出版も禁じられ、亡命を余儀なくされた。カナダのマギル大学の客員教授となり、1969年にはカリフォルニア大学バークレー校に移って、そこで経験した学生運動が新左翼からも離れる契機になった。1970年にオックスフォード大学オールソウルズ・カレッジの上級研究員となり、以後は主にオックスフォードに留まり、イェール大学やシカゴ大学でも教えた。1971年の評論「希望と絶望に関するテーゼ」は、全体主義国家でも自己組織化された社会集団が市民社会を少しずつ広げうると説き、1970年代の反体制運動を刺激した。1976年の『マルクス主義の主要潮流』全3巻で世界的な評価を得た。その思想は「連帯」の運動にも大きな影響を与えたとされる。2009年7月17日に死去した。
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