伝記
グスタフ2世アドルフは、1594年12月9日(グレゴリオ暦12月19日)、スウェーデン国王カール9世と2度目の王妃クリスティーナの子として生まれた。ヴァーサ朝第6代の国王で、娘は後の女王クリスティーナである。王太子時代にロシア・ツァーリ国の内戦(大動乱)に介入し、1617年のストルボヴァの和約で、ツァーリ位放棄の代償としてイングリアとカレリアなどを獲得した。スウェーデンの大国時代はこの頃から始まるという意見が多い。1611年に即位したが、当時はデンマークとカルマル戦争のさなかで、戴冠式を挙行できたのは1617年になってからだった。戦争には敗れ、1613年のクネレド条約でデンマークに賠償金を支払うことになった。ドイツの貴族の娘マリア・エレオノーラとの結婚を名目に1620年にドイツ各国を訪れたが、実際には軍事施設を視察していたとされ、帰国後にオランダの軍事理論を取り入れた軍事改革を試みた。
次に、王位を要求していた従兄のポーランド王ジグムント3世との戦争に全力を挙げた。緒戦はリガを攻略して事実上リヴォニアを征服し、東プロイセンも制圧するなど優勢だったが、ポーランド軍の指揮官となったスタニスワフ・コニェツポルスキの前に劣勢に立たされ、3度にわたり危ういところで死を免れた。チェフの戦いでは頸部と右腕を狙撃されて落馬し、とどめを刺される寸前で九死に一生を得た。この戦傷のため、以後は金属製の甲冑を着ることができず、右腕も不自由になった。グジュノの戦いで勝利しても、最大の決戦プツクの戦いでは、神聖ローマ帝国の支援を受けたコニェツポルスキ軍の前に総崩れとなり、ポーランド征服の野望は潰えた。両国には厭戦気分が広がり、三十年戦争への介入を見据えていた彼はフランスの調停もあってアルトマルクの和議を結んだ。スウェーデンはジグムント3世からの王位要求の保留、リヴォニアの獲得、メーメル・ダンツィヒ平原の諸都市での徴税権(プロイセン船舶関税)を得たが、これらの徴税権は1632年の彼の死後、1635年にポーランドへ返還された。
1630年にポメラニアに上陸してドイツに攻め入り、翌1631年にフランスとベールヴァルデ条約を結んで本格的に三十年戦争に参戦した。ブライテンフェルトの戦いでティリー率いる皇帝軍に勝ち、続くレヒ川の戦いでティリーを討ち取って、バイエルンを侵略した。その後ヴァレンシュタインの皇帝軍に幾度か決戦を挑んだが迎撃に遭い、膠着状態に陥った。これは三十年戦争での事実上初の敗退で、軍事的な損害は小さいが、政治的には深刻だった。ヴァレンシュタインが皇帝軍を分割したのを察知した彼は、決着をつけるため強行軍で追い、リュッツェンの戦いに挑んで戦死した。38歳だった。傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが指揮を引き継いで戦闘には勝ったが、崩御後、スウェーデンは三十年戦争の主導権を失った。
彼は軍事の革命者でもあった。オランダの軍事革命を取り入れ、傭兵制度も徴兵制に加えた。フィンランド人の騎兵ハッカペルは勇猛で知られた。1632年にはタルトゥにアカデミア・グスタヴィアナを設立している。宰相アクセル・オクセンシェルナの指導の下、スウェーデン軍は三十年戦争を乗り切った。ナポレオン1世は彼を歴史上の7人の英雄の一人と称えたという。
同じ年に亡くなった人物
- ハフィズ・アフメド・パシャ (1632年没)
- アブラハム・ヤンセンス (1632年没)
- トマス・デッカー (1632年没)
- ヴァランタン・ド・ブーローニュ (1632年没)
- フィリッペ・ファン・ランスベルゲ (1632年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・フォン・マティソン (1831年没)
- マティルド・ド・フランス (980年代没)
- ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯) (1586年没)
- ルドルフ2世 (ザクセン選帝侯) (1370年没)
- レオポルト (アンハルト=ケーテン侯) (1728年没)