HISTORICAL PERSON · 2010年没

ジョルジュ・シャルパク

ポーランド系フランス人の物理学者でノーベル物理学賞受賞者。レジスタンスに属して収容所に収監され、ホロコーストを生き延びた。

生涯
2010年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 5区)
出生地
ウクライナ(ドゥブロヴィツャ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョルジュ・シャルパクは、1924年3月8日に生まれ、2010年9月29日にパリで没したポーランド系フランス人の物理学者である。1992年に、高エネルギーの粒子を捉える検出器の研究によりノーベル物理学賞を受賞した。ホロコーストを生き延びた人でもある。

本名をヘルシュ・ジョルジュ・シャルパクといい、ポーランドのドンブロヴィツァ村(現在はウクライナ領)に、ユダヤ人の家系の子として生まれた。父モーリスは商人、母はアンナ・シャピロといった。一家は1931年にフランスへ移住し、パリに住んだ。1937年、13歳の頃に、少年少女の社会主義系の団体「赤いタカ」に加わったが、1938年のミュンヘン協定のあとに退いて、ユース・ホステルの運動に加わった。1940年にドイツ軍がフランス北部を占領した。1941年に高校の卒業試験に合格してパリのリセに在籍し、弟のアンドレと両親は黄色い星の着用を拒み、管理人に密告されたため、パリで起きた一斉検挙の前に逃れた。シャルパクは偽の身分証明書を持っていた。1942年にはモンペリエに母や弟と住み、父は強いなまりで目立たないよう、セヴェンヌ山地で木こりとして働いた。

1942年11月にドイツ軍が全土を占領すると、リセの同級生を通じてレジスタンスの運動に加わった。後年、年が若く、準備も足りなかったと振り返り、出会った抵抗者の悲劇的な最期に責任を感じているという。1943年に理工科学校の入学試験に失敗し、パリ国立高等鉱業学校に合格したが、夏にヴィシー政権の警察に逮捕されて、学業は中断した。モンペリエの刑務所に入れられたのち、12月に別の刑務所へ移され、そこで数学や物理学の講義を行い、受けもした。1944年にドイツのダッハウ強制収容所に送られた。貨車に閉じ込められた移送は3日に及んだ。のちにランツベルクの空軍基地に移され、1945年4月末、収容所の司令官が被収容者を徒歩で移動させる決定をし、アラハに到着してアメリカ軍に解放された。いくつもの言語を使えたことが、生き延びる助けになったと語っている。

戦後は、中尉の階級を認められ、1946年にフランスへ帰化した。戦功十字章を持ちながら、それまで帰化を拒まれていたが、鉱業学校の学生であることもあって認められたという。解放の時に共産党に入り、1957年まで活動した。1947年に鉱業学校を卒業し、1948年に国立科学研究センターの研究員となり、フレデリック・ジョリオ=キュリーが率いるコレージュ・ド・フランスの原子核物理の研究室に入った。ジョリオ=キュリーは原子核物理を勧めたが、自分で検出器を主題に選び、1954年に博士論文を提出した。1959年にジュネーヴの欧州原子核研究機構に移り、1963年に常勤の研究者となった。ここで多線式の比例計数管を完成させ、泡箱に代わって、情報処理が可能な検出器として広まった。特許を取ることにも気を配った。住まいはフランス側のジェクスに定めた。1985年に科学アカデミーの会員となり、1989年に第1回の高エネルギー・素粒子物理学賞を受けた。フランスでは原子力発電の強力な支持者として知られた。

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