伝記
リー・アレキサンダー・マックイーンは、1969年3月17日にロンドン南東部ルイシャムで、6人兄弟の末っ子として生まれたイギリスのファッションデザイナーである。スコットランド出身の父はタクシー運転手、母は社会科の教師だった。幼い頃から服に関心があり、3人の姉妹のためにドレスを作って試したほか、3歳の頃に実家の壁にドレスの絵を描いたのが最も古いファッションの記憶だという。鳥にも魅了され、のちに作品のモチーフにたびたび鳥を用いた。1985年、16歳で学校を去ると、仕立ての課程で学んだのち、サヴィル・ロウのテーラーで二年間コートづくりの徒弟として働き、その技術で完璧な仕立ての名手という評判を得た。
その後は劇場衣装の工房や、実験的なデザイナー、ジョン・マッキタリックのもとで経験を積んだ。マッキタリックの勧めで、当時のファッションの中心だったイタリアを目指し、1990年春にミラノへ渡って、作品集と仕立ての経験を買われてロメオ・ジリのアトリエに入った。同年7月に辞めて8月にはロンドンに戻り、さらに学ぶため、セントラル・セント・マーチンズの修士課程に進んだ。1992年の卒業コレクションは、『ヴォーグ』のエディターでスタイリストのイザベラ・ブロウの目に留まり、無名だったにもかかわらず、ブロウは5,000ポンドという破格の値段でコレクションをすべて買い取ったという。これがデビューのきっかけとなり、以後ブロウは彼の支援者となった。同年に自らの名を冠したブランドを設立した。
初期には、極端に股上を浅くした「バムスター」と呼ばれるズボンで評判を呼び、英国ファッション界の問題児として認められた。1996年にロンドンコレクションに参加し、同年にジバンシーのデザイナーに抜擢された。2000年12月、自社の株の51パーセントをグッチ・グループに売却すると、別の企業グループの傘下にあるジバンシーとは仲違いし、2001年10月の契約期限とともにデザイナーを更迭された。グッチはその後、世界各地に店を設けて商品の幅を広げた。ブリティッシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤーを4度受賞し、2003年にはファッションへの貢献から大英帝国勲章コマンダーを授けられた。ショーは演劇的で、1999年春夏のショーでは、モデルがロボットに吹き付けられて塗装される演出で幕を閉じた。
セカンドラインの「マックキュー」やプーマとのスニーカーも手がけた。友人のケイト・モスが薬物のスキャンダルで批判された際には擁護し、2006年春夏コレクションのフィナーレでは「ウィー・ラブ・ユー・ケイト」とプリントしたTシャツを着て登場し、翌シーズンの秋冬ではホログラム映像でモスを登場させた。2000年夏にはパートナーの男性とイビザのヨットで式を挙げたが、当時のスペインでは同性婚が認められておらず、非公認だった。二人は1年後に別れたが、友人としての仲は続いた。
母をロンドン・ファッションウィークの数日前に亡くしたのち、2010年2月11日朝、ロンドンの自宅で亡くなっているのを家政婦に発見された。満40歳だった。検死裁判所は2月17日に窒息による死と発表し、4月28日に死は公式に自殺と記録された。2010年5月からは、長年の協力者サラ・バートンがクリエイティブ・ディレクターとなってブランドを継続している。回顧展「サヴェッジ・ビューティー」が2011年と2015年に開かれ、2018年にはドキュメンタリー映画『マックイーン:モードの反逆児』が公開された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ウッデン (2010年没)
- メアリ・デイリー (2010年没)
- 佐伯博司 (2010年没)
- アンドール・リリエンタール (2010年没)
- ジェームズ・ギャモン (2010年没)
同じ地域に関係する人物
- サイード・ジャフリー (2015年没)
- ヒュー・ゴフ (初代ゴフ子爵) (1869年没)
- シリル・キューザック (1993年没)
- ジョージ・ウィリアムズ (YMCA) (1905年没)
- ベン・ジョンソン (詩人) (1637年没)